「え‥‥‥‥‥‥っ?」
突然。
いつも通り髪を撫でて、ほっぺをつねっていた手が、俺の後頭部に回った。
ぐっと力を入れられて、驚く暇もなく引き寄せられる。
お兄ちゃんの綺麗に整った顔が、ぼやけた。
至近距離過ぎて。
そして何か、唇に違和感。
図書館にいるせいかかさかさして、それでいてふにゅっとしたやわらかい感触。
これ、って‥‥‥‥‥‥
「「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥あ、」」
キス?
気付いたと同時に、勢いよく離された。
俺はもちろん呆気にとられて、ただ瞬きを繰り返すしかない。
でも目の前にいる、行動を起こした張本人であるお兄ちゃんの方が、なぜかよっぽど驚いているように見えた。
だって完全に硬直してるし‥‥‥‥‥‥
あ、鳥が鳴いてる。
いい天気だもんなぁ‥‥‥‥
「‥‥‥‥‥‥‥‥ッ、わ、悪い‥‥‥‥‥っっ」
「っ待って!!!」
意識が外に向いてた割に、俺はすぐ反応できた。
がたん! と椅子から立ち上がって逃げ出そうとするお兄ちゃんの腕を、俺は咄嗟に掴んでた。
多分、俺はお兄ちゃんの力には敵わない。
振り払われたらそれまでだと思う。
でも、お兄ちゃんは、そんなことしなかった。
俺に半ば背を向ける形で、立ち尽くしている。
お兄ちゃんの腕。
一回だけ、抱きしめてもらったことがある。
強くて、それでいてやさしくて。
お兄ちゃんのにおいが、すごく近くて。
考えないようにしてたのに、思い出してしまったらまた、鼓動がぶり返してくる。
だけど今はそんな場合じゃないから、俺は気持ちを落ち着かせようと必死になった。
「‥‥‥‥‥‥‥お兄ちゃん、」
「‥‥‥‥‥‥」
「お兄ちゃん‥‥‥‥‥ちゃんと、説明して?」
うやむやなんて嫌だ。
ずっとこのままの距離だと思ってた。
手を繋げる、一緒に暮らせる、傍にいられる、それで満足するべきだって自分に言い聞かせてた。
もう兄弟でもなんでもないのに、こんな近くにいられるんだから。
でも。
もしかしたら、縮まるかもしれない。
それに、このことに今けりをつけなければ、今までより更に一歩、離れてしまうような気がして。
「お兄ちゃん‥‥‥‥‥」
黙り込んだまま、顔を背けたままのお兄ちゃん。
紡ぐ言葉に懇願が混じる。
ねえ、お願い。
心の中で繰り返したら、おもむろに、振り返った。
ほんの一瞬目が合って、すぐ逸らされる。
「‥‥‥‥‥‥、‥‥‥‥‥‥‥本、選んで」
「え?」
「借りるやつ、」
意味がよくわからなくて首を傾げたけど、ちくちくした沈黙が針のむしろになりかけた頃、やっとお兄ちゃんの意図が掴めた。
家に帰って話そうっていうことか。
そういえばここ大学だもんな‥‥‥‥‥。
お兄ちゃんのお友達がいないとも限らないし、弟同伴だったら気まずいよね。
「あー、えーと、‥‥‥‥‥‥じゃあね、これとこれ」
「ん」
あんまり吟味してる余裕はなさそうだったから、厳選した六冊の中からほとんど適当に二冊選んでお兄ちゃんに渡す。
一階に下りて、司書さんのところで貸し出しの手続きをしてもらってる間、俺は少し離れたところからじっとお兄ちゃんを見ていた。
上の空‥‥‥‥‥というか、落ち込んでる?
本の入った鞄を片手に、行こうって独り言みたいに呟いたお兄ちゃんは、相変わらず俺から視線を外したまま。
さっさと一人歩いて、隣にも並ばせてくれない。
手も、繋いでくれない。
こんなの嫌だ。
「お兄ちゃん、」
「っ!!」
縋るような思いで伸ばした手は、お兄ちゃんの小指を捕まえた。
びくりと肩を揺らして、お兄ちゃんが凍り付いたように立ち止まる。
嫌、なの?
そんなに?
さっきのはただのマチガイ?
なかったことに、したい?
力が、抜ける。
するりと指が逃げていく。
でも、離れそうになった、瞬間。
予想外なくらい強い力で、がしりとその手を掴まれた。
指が、絡む。
「えっ、‥‥‥‥‥‥‥えっ? お、お兄ちゃ、」
そのままぐいぐい引っ張られて、俺は引きずられるように歩き始めた。
のんびり歩いてきた道を、小走りになりそうなくらいの速さで。
だけどこれくらいがいいのかもしれない。
この、火を噴きそうなくらい熱くなった頬が冷めるなら。
お兄ちゃんは何も言わない。
耳が赤く見えるのも、単に夕日のせいなのかもしれない。
でも。
指先が震えてるように感じて、俺はそっと、いつもと繋ぎ心地が違う手を握り返した。
今日は夕食をどうしようかとか、そういう他愛ない会話をしなかった。
初めて一緒に帰った日よりも静かな、どこか落ち着かない帰り道。
でも期待に波打つ鼓動がやけに大きく響く、この沈黙も嫌じゃないと、俺は思っていた。