ccidentally




 休日だからか西門は鍵がかかってて、正門では守衛さんが詰める駐在所? みたいなものを見つけてしまって、俺は相当挙動不審になった。

 だって俺、高校生だし。
 ここの学生じゃないし。

 まあ守衛さんはいなくて、お兄ちゃんも「私服だしバレないって」と頭を撫でてくれたけど、やっぱり不安なものは不安。
 目当ての図書館棟に入り、司書さんの死角に入る場所まで来て。
 俺はやっと、深く息を吐きだした。







「あー、怖かったぁ‥‥‥‥‥」
「だから言ったろ、平気だって」







 苦笑するお兄ちゃんに、俺はついぷうっと頬を膨らます。
 そりゃあお兄ちゃんはここの学生だしいいけど、俺は違うんです。
 しかも今は土曜の昼下がり、午前中授業があったからか生徒だけじゃなく先生らしい人も結構うろうろしてて。
 何かの拍子に声でもかけられたらどうすればいいの? 俺逃げるしかないよ?

 もう一度溜息をついて、ふと、俺は顔を上げた。











 圧迫感を感じるくらいにずらりと並ぶ書架。

 そこにぎっちりと隙間なく収納された本。


 当然のことながらその全てにタイトルがあって、作者が居て。

 本の数だけ、俺がまだ知らない世界があって。



 恐怖とも興奮ともつかない感覚に、体が震えそうになる。







 さらりと前髪に触れられて我に返ると、お兄ちゃんがやさしく微笑んで俺を見ていた。



「ここの五階に、俺の気に入ってる席があるんだ。あんま人来ないし、すげー日当たりよくて。読む本見つけたらそこな。
 多分すぐわかると思う」
「う、うん」
「じゃあほら、好きなだけ探してこい」







 軽く、背中を押されて。
 俺は走りたい気持ちを必死に抑えて、書架の森に分け入った。

 宝物を探しに。





















 そこは本当に日当たりが良くて、本を読むにも昼寝をするにも打って付けの場所だった。
 長机を挟んで向かい合う形で、椅子が数脚ずつ置いてある。
 目が眩みそうなくらいの光の中、本を読んでいたお兄ちゃんが、近づいてくる俺に気付いてこっちを向いた。





「なんか全然人いないね」
「土曜の午後なんかそんなもんだろ。‥‥‥‥‥‥‥ていうかお前、今それ全部読む気か?」
「‥‥‥‥‥‥やっぱり無理?」





 いや、本当は一冊見つけたらすぐここに来るつもりだった。
 でも階段を探してうろうろしてる時気になるジャンルの書架を見つけてしまって足止め。
 更に一階上がる毎に、どうしても周りが気になって。
 それで、六冊で済んだのはすごいと思うんだけど。



「お前、高校とか家とかに読みかけあるんじゃないのか」
「あ、うん。図書室と教室と家で三冊‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥とりあえず二冊借りてやるから、他はまた今度にしろ」
「ええぇ〜〜‥‥‥‥」
「いくら読むの早くても一遍に十冊なんか読めないだろ?」



 そうだけど。
 そうだけどそういう問題じゃない。
 なのにどう反論すればいいかわからなくておろおろしてたら、苦笑したお兄ちゃんが手招きした。
 そういえば本持って立ったままだ俺。
 やっと腕が重いことに気付いて、慌ててそっちへ向かった。

 最初は正面に腰を下ろそうとした。
 でもちょっと考えて、お兄ちゃんの隣に落ち着く。
 変に思ってるだろうなと思ったけど、案の定、首を傾げられる。







「‥‥‥‥‥前座らねーの?」
「んー‥‥‥‥‥影できちゃうかなって」







 俺がお兄ちゃんの向かいに座ると、太陽の光を遮ってしまって、多分手許の本から明るさを奪ってしまう。
 そう説明したら「そんなこと気にしなくていいのに」って笑われた。
 納得してくれたみたいでほっとする。

 だって本当はそれだけじゃないんだ。



















「ありがとな、律」



















 お兄ちゃんの顔を、正面からじっと見てるのも好きだけど。
 隣だったら、こうやって頭を撫でてもらえるから。

 お兄ちゃんから一番近い距離に俺がいるのが嬉しい。











「何にやにやしてんの?」
「ふぎゅ」











 髪を梳かれていたはずなのに、いきなりほっぺをつねられて、つい変な声が漏れる。
 なんの鳴き声だよって笑われる。


 お兄ちゃん、よく笑うようになったな。


 ほっぺ痛いのに、俺の顔は無意識にほころんでしまった。





























「俺、お兄ちゃんの隣が一番好き」





























 お兄ちゃんの隣は、どこよりも一番どきどきして落ち着かない場所。
 同時に、一番幸せになれる場所。
 なんの抵抗もなく、むしろ当然みたいに受け入れてもらえるのも嬉しい。
 なんでだろう、でもたまらなく居心地がいいんだ。


 他にも感謝とか喜びとか、そういうの全部込めて、心から伝えた、のに。











 ぴたりと、お兄ちゃんの動きが止まった。







 引っ張られていたほっぺからも力が抜けて、じわっと痛みが広がる。











「‥‥‥‥‥‥お兄ちゃん?」











 なんだろう。
 そっか、って咲ってくれると思ってたのに、なんでこんなに無反応なんだろう。
 もしかして俺、なんかうざかった‥‥‥‥‥?
 急に不安になって、お兄ちゃんの表情を窺おうと覗き込んだ。





 覗き込もうと、した。











「え‥‥‥‥‥‥っ?」











 突然。

 いつも通り髪を撫でて、ほっぺをつねっていた手が、俺の後頭部に回った。

 ぐっと力を入れられて、驚く暇もなく引き寄せられる。











 お兄ちゃんの綺麗に整った顔が、ぼやけた。


 至近距離過ぎて。















 そして何か、唇に違和感。















 図書館にいるせいかかさかさして、それでいてふにゅっとしたやわらかい感触。















 これ、って‥‥‥‥‥‥



























「「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥あ、」」





























 キス?





























 気付いたと同時に、勢いよく離された。
 俺はもちろん呆気にとられて、ただ瞬きを繰り返すしかない。

 でも目の前にいる、行動を起こした張本人であるお兄ちゃんの方が、なぜかよっぽど驚いているように見えた。
 だって完全に硬直してるし‥‥‥‥‥‥







 あ、鳥が鳴いてる。
 いい天気だもんなぁ‥‥‥‥





























「‥‥‥‥‥‥‥‥ッ、わ、悪い‥‥‥‥‥っっ」
「っ待って!!!」





























 意識が外に向いてた割に、俺はすぐ反応できた。
 がたん! と椅子から立ち上がって逃げ出そうとするお兄ちゃんの腕を、俺は咄嗟に掴んでた。
 多分、俺はお兄ちゃんの力には敵わない。
 振り払われたらそれまでだと思う。
 でも、お兄ちゃんは、そんなことしなかった。
 俺に半ば背を向ける形で、立ち尽くしている。



 お兄ちゃんの腕。
 一回だけ、抱きしめてもらったことがある。
 強くて、それでいてやさしくて。











 お兄ちゃんのにおいが、すごく近くて。











 考えないようにしてたのに、思い出してしまったらまた、鼓動がぶり返してくる。











 だけど今はそんな場合じゃないから、俺は気持ちを落ち着かせようと必死になった。



















「‥‥‥‥‥‥‥お兄ちゃん、」
「‥‥‥‥‥‥」
「お兄ちゃん‥‥‥‥‥ちゃんと、説明して?」



















 うやむやなんて嫌だ。
 ずっとこのままの距離だと思ってた。
 手を繋げる、一緒に暮らせる、傍にいられる、それで満足するべきだって自分に言い聞かせてた。
 もう兄弟でもなんでもないのに、こんな近くにいられるんだから。


 でも。















 もしかしたら、縮まるかもしれない。















 それに、このことに今けりをつけなければ、今までより更に一歩、離れてしまうような気がして。















「お兄ちゃん‥‥‥‥‥」















 黙り込んだまま、顔を背けたままのお兄ちゃん。
 紡ぐ言葉に懇願が混じる。



























 ねえ、お願い。



























 心の中で繰り返したら、おもむろに、振り返った。
 ほんの一瞬目が合って、すぐ逸らされる。







「‥‥‥‥‥‥、‥‥‥‥‥‥‥本、選んで」
「え?」
「借りるやつ、」







 意味がよくわからなくて首を傾げたけど、ちくちくした沈黙が針のむしろになりかけた頃、やっとお兄ちゃんの意図が掴めた。
 家に帰って話そうっていうことか。
 そういえばここ大学だもんな‥‥‥‥‥。
 お兄ちゃんのお友達がいないとも限らないし、弟同伴だったら気まずいよね。







「あー、えーと、‥‥‥‥‥‥じゃあね、これとこれ」
「ん」







 あんまり吟味してる余裕はなさそうだったから、厳選した六冊の中からほとんど適当に二冊選んでお兄ちゃんに渡す。
 一階に下りて、司書さんのところで貸し出しの手続きをしてもらってる間、俺は少し離れたところからじっとお兄ちゃんを見ていた。
 上の空‥‥‥‥‥というか、落ち込んでる?
 本の入った鞄を片手に、行こうって独り言みたいに呟いたお兄ちゃんは、相変わらず俺から視線を外したまま。
 さっさと一人歩いて、隣にも並ばせてくれない。


 手も、繋いでくれない。











 こんなの嫌だ。















「お兄ちゃん、」
「っ!!」















 縋るような思いで伸ばした手は、お兄ちゃんの小指を捕まえた。
 びくりと肩を揺らして、お兄ちゃんが凍り付いたように立ち止まる。



 嫌、なの?
 そんなに?
 さっきのはただのマチガイ?
 なかったことに、したい?



 力が、抜ける。
 するりと指が逃げていく。



 でも、離れそうになった、瞬間。







 予想外なくらい強い力で、がしりとその手を掴まれた。























 指が、絡む。























「えっ、‥‥‥‥‥‥‥えっ? お、お兄ちゃ、」























 そのままぐいぐい引っ張られて、俺は引きずられるように歩き始めた。
 のんびり歩いてきた道を、小走りになりそうなくらいの速さで。
 だけどこれくらいがいいのかもしれない。
 この、火を噴きそうなくらい熱くなった頬が冷めるなら。











 お兄ちゃんは何も言わない。
 耳が赤く見えるのも、単に夕日のせいなのかもしれない。
 でも。

 指先が震えてるように感じて、俺はそっと、いつもと繋ぎ心地が違う手を握り返した。







 今日は夕食をどうしようかとか、そういう他愛ない会話をしなかった。
 初めて一緒に帰った日よりも静かな、どこか落ち着かない帰り道。






 でも期待に波打つ鼓動がやけに大きく響く、この沈黙も嫌じゃないと、俺は思っていた。