病院に行ったらただの風邪だと診断されそうけど





 俺は基本的に運動が苦手だ。
 剣道・柔道・弓道といった武術系は結構好きだったりするけど、
 サッカーやら野球やらバスケやら、そういう現代スポーツは全然駄目。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥という苦手意識が悪かったのか、今日のテニスの授業で、俺は左足をねんざしてしまった。











「あれぇ? うっそ、先生いねぇの?」





 ペアを組んでたクラスメートが肩を貸してくれて、足を庇いながらなんとか保健室前へ。
 でも外から通じるドアには「不在です」の札がかけてあった。

「なんだよ、何かあったらすぐ対応しなきゃいけないのが保健室の先生だろ。いねぇとかどーゆーこと、使えねぇ」
「あっいいよ、大丈夫。ちょっとひねっただけだし」
「いやでも‥‥‥‥」
「平気だってば。来てないわけじゃないだろうし。ここで座って先生帰ってくるの待ってる」

 ドアの前には二、三段しかない階段がある。
 俺はそこに腰を下ろして笑ってみせた。

「ホント大丈夫だから。ありがとな、連れてきてくれて」
「‥‥‥‥‥‥わかった。授業終わったら様子見に来るからな」
「うん」

 ひらひらと手を振って、クラスメートを見送る。
 遠くで歓声や、「へたくそー!!」っていう笑い声が聞こえる。
 俺は少しほっとして溜息をついて、空を見上げた。

 ‥‥‥‥‥‥いー天気だなぁ。

 授業さぼってるような、少し悪いことしてるような感じがして落ち着かないけど、まあ仕方ないよな。
 足は黙ってれば別に痛まない。
 このまま昼寝したら気持ちよさそうだ。















 なんて、ぼーっとしてるうちに、どれくらいの時間が経ったのか。
 不意に、背後でドアが開いた。
 当然先生だろうと思って振り向くと、















「‥‥‥‥‥何してんの」















 いや、すみません。こっちの台詞です。
 俺はそれを口にすることも出来ず、呆気にとられてその人を見上げた。





























 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥なんで?





























「足、怪我したのか?」
「へっ?」







 なんでわかったんだろう、この人エスパーなんだろうかと思ったけど、なんてことはなかった。
 どうせ診てもらう時に脱がなきゃいけないからと思って、左足の靴と靴下を脱いでたから。
 少し、足首の色が変わってる。


「あー‥‥‥‥ちょっと、ひねっちゃって」
「ふーん」


 そしたら嵯峨先輩は、上履きのままこっち側に降りてきて。











「よっと、」
「ひゃっ!!!?」











 俺の背中と膝裏に腕を入れたと思ったら、そのままひょいと持ち上げられてしまった。
 地面に足が着かない不安定な体勢に驚いて、反射的に先輩の首にしがみついちゃったけど‥‥‥‥‥‥

 こ、これって‥‥‥‥‥これって‥‥‥‥‥‥!!!?



「あ、ああああああの、せんぱ‥‥‥‥っっ」
「なに?」



 俺だって男だし重いはずなのに、間近にある横顔はいつも通り涼しい。
 先輩はそのまま俺を保健室の中に連れて入って、そっと椅子に下ろしてくれた。
 消毒液のにおいがする非日常的な空間には、先生どころか生徒も誰もいないみたいだ。

「救急箱‥‥‥‥勝手に開けてもいいよな」

 独り言を言いながら先輩は俺に背中を向けて、机の上にどんと置いてある救急箱を漁り始める。
 俺はあまりのことに頭がついていかない。
 とりあえず、触れられていたところが異常に熱を持って、動悸も破裂しないか心配になるくらい激しくなってる。


「あ、‥‥‥‥‥あの、せんぱい‥‥‥‥‥」
「ん?」
「な、なんで‥‥‥‥‥ここに? 先輩も怪我とかしたんですか?」


 言わずもがな、今は授業中。
 よっぽどの理由でもない限り抜け出せないはずだ。
 もしかして先輩具合悪いんじゃないかと俺は心配になる。

 そしたら返ってきたのは、いまいち要領を得ない答え。







「‥‥‥‥‥お前が、保健室の前に来るの見えたから」
「えっ?」
「俺、席窓際だから」







 俺が見えた? 席が窓際?
 ということは‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ど、どういうこと???
 混乱してるうちに、嵯峨先輩が戻ってきた。


「湿布見当たらなかったから、とりあえず包帯巻いとく」



 言うなり、先輩がごく自然に、俺の前に跪く。



 俺は心臓が止まるかと思うくらいびっくりした。



「なっ‥‥‥‥ちょ、せせせんぱい!!! い、いいですって、そんな‥‥‥‥!!!」
「いーから」



 なんでもないことみたいに、焦る俺をあしらいながら、俺の左足を自分の膝の上に載せる。
 そして包帯を丁寧に巻き始めた。
 しゅるり、という包帯の擦れる音だけが、保健室の中にやけに響く。
 さっきは永久停止しかけた俺の心臓は、今度は膨らませすぎた風船が破裂するような勢いでばくばく鳴り響いてる。
 白い布を巻かれていく俺の左足が、小刻みに震える。
 時々、先輩の手が触れる。
 なんでだろう、もっとすごいこともしてるのに、なんでこんなに緊張するんだろう。



「‥‥‥‥なあ」
「はっっはい!!?」
「さっきお前に肩貸してたの、誰」



 先輩が下を向いてるから、俺からは先輩の髪しか見えない。
 生まれつき色素の薄い俺とは違う、黒い髪。
 闇色みたいに暗いわけじゃなくて、その証拠に光が当たると、虹色に輝く。
 すごく綺麗だ。



「クラスメートです、けど‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥ただのクラスメート?」
「た、ただのクラスメートです」
「‥‥‥‥‥ふーん」



 先輩のことは全部好きだけど、声もすごく好きだ。
 寡黙な人だからあんまり聞けないっていうのもあるけど、低くて、耳触りのいい声。
 それが今俺だけに向けられてるって思うと、信じられない。
 どうしようもなく、どきどきする。


「包帯、きつくないか?」
「あ、いえ、大丈夫です」


 器用だなぁ。
 俺絶対包帯なんか巻けない。巻いたことないけど。
 俺の左足は足首と土踏まずをほどよく固定されて、これなら一人でも歩けそうだった。
 先輩はちょきんとハサミで包帯を切って、余った端の処理もきちんとしてくれた。



「よし。できた」
「あ、ありがとうございま‥‥‥‥‥っっっ!!!?」











 ちゅ、と。











 そのまま足の甲に唇を押し当てられて、俺は大袈裟なくらいびくっと反応してしまった。

 だ、だって、だって、だって!!!!


「っさ、嵯峨先輩!!? あああああのっ」
「律‥‥‥‥‥」
「んっっ!!」


 整った綺麗な顔が、不意に近づいてくる。
 俺は反射的に瞼も、口も閉じてしまう。

「律」
「‥‥‥‥‥‥‥ぁ、」

 何度かそのまま唇を啄まれてから、名前を呼ばれた。
 怖々唇を薄く開くと、すかさず舌が入ってくる。
 ああもう、駄目なのに。
 こんなとこ、いつ誰が来るか、わからないのに。


「ん、んん‥‥‥‥っふ‥‥‥‥‥」


 舌を絡めると、くちゅくちゅ音が立って恥ずかしい。
 でも、あったかくて、堪らなく気持ちいい。
 俺の座る丸椅子に背もたれはないけど、先輩がしっかりと背中を支えてくれるから大丈夫。
 俺は先輩の学ランをぎゅっと掴んで、未だ慣れないキスに溺れた。

「あ‥‥‥‥‥‥‥‥せんぱ、」

 気持ちいいのと酸欠で、顔が離れても俺はぼんやりしていた。
 だから、俺は先輩の手がもぞもぞと動いてることに、あんまり気付いてなかった。
 俺が着てるのは、体育着っていうより、それこそテニスのユニフォームみたいなもの。
 襟から鳩尾にも届かない辺りまで、ボタンがいくつかついてるタイプ。
 それを、俺の頬にキスしながら、先輩はゆっくりと外して。



「ん‥‥‥‥‥‥っ?」



 不意にちゅぅ、と鎖骨辺りを吸い上げられて、俺はやっと我に返った。
 え? 今、何された?

「せ、先輩?」
「‥‥‥‥見えるかもな。着替える時」
「えっ?」
「いや別に」

 呟きの意図がわからなくて聞き返しても、先輩は軽く肩を竦めるだけ。
 でも少し、表情がやわらかく見えた。
 そうだ、さっきはなんとなく、機嫌悪いのかなって思ったのに。
 どうしたんだろう。
 俺がおろおろしてるうちに、先輩はボタンを留め直してくれる。

「お前、もう帰ったりするの?」
「へ?」
「だって足」
「あ、‥‥‥‥‥いえ、帰りませんよ。大怪我ってわけでもないですし、体育以外なら授業普通に受けられますし。放課後も‥‥‥‥」



 図書室に、行く予定ですけど。



 言ってしまってから、俺はすごく後悔した。
 今までこんなふうに、行くとか行かないとか口に出したことはなかった。
 たまたま会う、っていうのが常だった。

 どうしよう、これで今日先輩が来なかったら、もしそれに深い意味がなかったとしても、俺ショックで立ち直れないかもしれない。

 めまいすらしてきて、俺は俯いてきつく拳を作る。
 と、



 ふわりと、頭を撫でられた。
 驚いて顔を上げると、またかすめ取るように、唇と唇が重なって。
 先輩はすたすたとドアに向かうと振り返って、ぽかんとしてる俺に、ふっと目を細めてみせた。





























「じゃあ、放課後にな」





























 あぁ、どうしよう。
 ほとんど表情を変えない人なのに。











 咲ってくれた。











 俺しかいないのに。























 俺だけに、咲ってくれた。























「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥せんぱい、」











 体中が熱い。
 先輩に触れられたせいかもしれない。
 心臓が過重労働してるせいかもしれない。
 俺もう、ホントに死んじゃうんじゃないかな。











 俺は明るい保健室で一人、火照りの引かない顔を両手で覆った。