クリーム



『超緊急事態。至急部屋に来い』



 なんとなーく、嫌な予感がした。

 でもホントに緊急事態だったら行かないわけにもいかない。

 万が一あの人が倒れるとかしたら、困るのはこっち―――――下っ端なのだ。

 嫌々、仕方なく、俺は隣の部屋のチャイムを押して。




「来たか」




 すぐドアを開けて出迎えた彼は、上裸だった。

 反射的に、顔が真っ赤になる。

 自分でも律儀で素直だと思う。


「なっ、なんですか!! 超緊急事態だっていうから来たのになんで裸なんですか!!」

「別に嘘はついてねぇし」


 強引に中に引っ張り込まれ、リビングに連れて行かれ。

 はい、と。渡されたものは。





「‥‥‥‥‥‥クリーム?」





 乾燥肌用のクリームだった。


「これ、背中に塗ってほしーんだけど」


 ここ数日はすっかり冷え込んで、冬の足音が地響き混じりに聞こえてきている。

 俺はあんまり縁がないからわからないけど、乾燥肌の人にとっては確かに非常事態かもしれない。


「あー‥‥‥‥でも俺、ちょっと手冷たいですけど、」


 大丈夫ですか、と。

 問う前に、ぎゅっと手を握られた。


「ああ、大丈夫。これくらいなら許容範囲」


 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥っこ、この人は‥‥‥‥‥‥っっ!!!

 手はすぐに離されたけれど、俺の心臓はそう簡単に静まってくれない。

 会社でも会ってるし、家まで隣なんだから、そろそろ免疫できてもいいだろ俺!!

 と、思うのだが、なかなかそうはならない。

 ああ、もう嫌だ。

 さっさと済ませて帰ろう。


「よろしくお願いします」

「‥‥‥‥‥‥‥‥はい」


 俺の心の中で吹き荒れる嵐なんか知りもせず、高野さんが俺に背中を向ける。

 ‥‥‥‥大きい、よなぁ。

 そういえばこの人の背中あんまり見たことってないな、と俺は気付いた。

 会社では、高野さんを追いかける場面も結構あるけど。

 何も身につけてない状態では、見たことがない。

 だって裸になってる時は大抵向かい合わせだし‥‥‥‥‥って何考えてんだ俺!!!


 俺は急いでクリームを掬い取って、その背中に塗っていく。

 あったかいなーとか、髪少し濡れてるしお風呂上がってすぐなんだなーとか、余計なことを考えないように必死だった。


「たっ、高野さんって、乾燥肌なんですか?」

「そ。だから冬はクリームが手放せない」

「いつもはどうしてたんですか、クリーム」

「頑張って自分でつけてた。じゃなきゃかゆくて寝られないからな。でも腕つりそうになるんだよ」

「そ、そうなんですか‥‥‥」


 一体どこまで塗ればいいのかわからない。

 俺はとりあえず、あんまり下の方は避けて、自力じゃ難しそうなところにだけ手を滑らせた。


「っと、これで‥‥‥‥大丈夫ですかね」

「ありがと。助かった」

「い、いえ。クリームお返しします。じゃ、俺はこれで‥‥‥‥」


 そそくさと逃げようとした。

 それが一番だと本能が伝えていたから。

 でも、逃げられなさそうな予感は、正直あった。





「待てよ」





 案の定、腕を掴まれる。


「な、なんですか。用事は済んだでしょ。帰ります」

「お礼してやる」

「結構です!! お礼欲しさにやったんじゃありませんから!!」

「愛だな。まぁいーからゆっくりしていけよ。俺もお前のおかげで、かゆみを気にせず過ごせるわけだし」

「どうぞお一人でごゆっくりお過ごしください!! 離してくださいーー!!!」

 ん? ちょっと待て。

 もしかして冬の間、俺は毎日ここに呼び出されて、高野さんの背中にクリームを塗るよう言いつけられるのか!!?

 そして毎度‥‥‥‥‥‥‥‥こ、こんな‥‥‥‥‥‥‥‥ことに‥‥‥‥?

 冗談じゃない!! 身が保たない!!


 と思うのに逃げられない自分がマジで嫌だ!!!!














 小野寺律、25歳。



 俺にも春はやってくるんでしょうか。