セフレのようなもの、なんだと。
随分前に割りきった。
だってあの人は昔から、すごくたくさんのことを諦めてきた人で。
失うことを恐れるあまり、何かを手に入れることを、無意識ながらも徹底的に拒絶する人だから。
俺も、形や言葉を望まないことにした。
俺はただ、あの人の近すぎず遠すぎないところにいる。
だって俺には、あの人の造り出す分厚い壁を打ち崩すことなんか、できないから。
それをしていいのは本人だけだから。
だから、ただ、越えられない一線に寄り添うようにして、佇んでいる。
「あ、」
ころん。
一瞬焦ったような声。
何かが床に落ちる音。
俺は反射的に顔を上げていた。
視線を向けた先、窓に一番近いそこに陣取るのは、エメラルド編集長の高野政宗。
いつもの不遜なくらい自信満々で、すぐ怒鳴り声を上げる俺様横暴さは丸川書店名物の域だ。
でも。
その瞬間、その人は、確かに困惑の表情を浮かべていた。
多分、ここにいる誰よりも付き合いの長い俺は、自分の目を疑った。
こんな顔できたの、この人。
「‥‥‥‥‥‥‥‥えと、高野さん?」
「‥‥‥‥‥‥あ、?」
「どうか、したんですか? 何か落としたような音、しましたけど」
音域が高めの、涼やかな音だった。
金属っぽい感じ。
まあ、お金っていうわけじゃないだろうけど。
普段なら教えてなんかくれなかったと思う。
元々、執着っていうことをしない人だから。
すぐ興味を失って「別になんでもない」とか言うんだろうと思った。
なのに意外にも、その時は、求めていた答えが返ってきた。
「指輪‥‥‥‥‥」
「へえ、指輪‥‥‥‥‥って、え? 指輪!!?」
この人はスタイルだけじゃなく服のセンスもいいけど、装飾品の類はしない。
邪魔だとかいって、腕時計もしたがらないくらいだ。
なのに指輪なんか持ってるってことは、誰かからもらったのか誰かにあげるのか‥‥‥‥‥‥
とにかく、第三者が関わってることは確かで。
なんでそんなもん会社に持ってきてんだよ!!!
そして落とすなよ!!!!!
俺は慌てて立ち上がり、そっちへ行く。
「ほっほら、何暢気に座ってんですか!! さっさと探しますよ!!!」
「え?」
「え、じゃないです。大事なものなんでしょうが!!!」
俺がそう口にした、瞬間。
どうしよう、っていう気持ちで揺れ動いていた黒い瞳から、すっと感情が消えた。
‥‥‥‥‥‥あ。
言葉、選び間違ったかも。
大事なんでしょ、なんて言ったら、返事は当然。
「‥‥‥‥‥‥別に。」
俺にしか聞こえないような声で呟くと、資料を手に立ち上がる。
「会議行ってくる。あちこち散ってるヤツらもそのうち帰ってくるだろうから、一応そう伝えといてくれ」
「‥‥‥‥‥はい」
いつもと変わらない後ろ姿。
ねえ。
また、諦めるの?
今までと違って、探しもせずに諦めていいようなものじゃないんだろ?
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥何、してんの」
え、うそ。
「こっちの台詞なんですけど‥‥‥‥」
俺はここ何日か、終電ぎりぎりまでエメ編に残ってた。
まだそんなに忙しくないし、その日分の仕事は、遅くても10時には終わってるんだけど。
見たこともないあの指輪が、気になって仕方なくて。
で、編集長や先輩からの飲みやら食事やらの誘いを断って、一人ここで探していたわけだけど。
なんでこの人がここに。
「あんたさっき帰りましたよね‥‥‥‥‥‥?」
「お前最近、忙しくもないのに帰り遅いから、何してんのかと思って戻ってきた。
‥‥‥‥‥まさかマジで会社にいるとは思わなかったけど」
「はあ‥‥‥‥、」
「それで、何してんだよ。髪にすげー埃ついてるけど」
昼間の張り詰めた喧噪が嘘みたいに、人の気配がないフロア。
近づいてきたその人が俺の髪を梳く。
やさしく頭を撫でるようにされて、探し物に疲れていた俺は、つい大人しく目を閉じてしまった。
この人の手は、大きいくせに繊細で、触れられるとどうしようもなく心地いい。
なんとなく、「んー」と意味もなく呻る。
「それで? 俺の机の下に潜って何してた」
「んー‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥仕事で怒った腹いせに、床にワックス塗って滑らせようとかじゃないだろうな」
「あんた俺をいくつだと思ってるんだ」
突飛且つ地味すぎる嫌がらせを口にするその人に、つい呆れ返る。
文具が大量に入ってる引き出しにスライムぶち込むとか、それくらい言えばいいのに。
‥‥‥‥って違う。
「あんたが落っことしたもの、ちょっと気になって」
「え?」
「指輪」
言うと、僅かに表情が変わった。
もしかしたらエメ編の人たちにもわからないかもしれない。
でも、俺はわかる。
なんだかんだ、十年一緒にいるんだから。
ただ、ひとつだけ。
近くにいて、事情をわかってるからこそ、口を出さなかったことがある。
「‥‥‥‥‥‥‥あんたが指輪なくしたのは、ここでしょ」
「‥‥‥‥‥‥」
「てことは、どこにあるかわからないだけで、絶対ここに指輪あるんだよ」
「‥‥‥‥‥‥、」
「見つけたい、でしょ?」
大事なものを作るのが怖いなら、作らなければいいと思ってた。
きっとこの人は、手に入れた喜びよりも、失う恐怖に怯える日々を送るんだと思う。
だけどあの指輪は違うって、もう手放せるレベルじゃないって、わかったから。
せめてそれだけは、諦めてほしくないから。
お前に関係ないだろ、くらいは言われる覚悟をしてた。
でもその人は、一瞬遠くを見るような眼をして。
またすぐ俺に向き直った。
「‥‥‥‥‥そ、か。そうだよな。ここで落としたんだから、ここにあるよな」
「‥‥‥‥‥‥」
「なくしたもん探すとかずっとしたことなかったから、そんな簡単なことも忘れてた」
ふっとその口元に浮かんだ笑みには。
自嘲も悲愴も恐怖もなく。
ただ、ひどく自然で、ひどく穏やかだった。
「一緒に、探してくれるか」
何が何でも見つけ出したいと、強く思った。