はなひらく



「お、おはよ゛うございます‥‥‥‥‥‥っ」



 ぜいぜいと息を切らして、それでも律儀に挨拶をする小野寺。





 その手には、一本の枝が握られていた。





「あれ? なんかいい匂い」
「小野寺くん、それ何?」
「へ‥‥‥‥あ、これですか?」


 小野寺は思い出したような顔をして、かぶせられていたコンビニの袋を丁寧に剥がす。
 途端、甘い香りが、編集長席まで漂ってきた。

















「蝋梅です」

















 枝にびっしりとついた、穏やかな黄色の花。
 気持ちを癒す、強いけれどやさしい匂い。
 それに気付いたらしい他編集部の編集者たちも、なんだろうとこっちに目を向けてくる。

 その時、小野寺の後ろからトリが戻ってきた。
 会議後で疲れた顔をしてたけど、やっぱりすぐその匂いに気を取られたらしい。



「それどうしたんだ?」
「おはようございます羽鳥さん。あー出勤する時、マンションの近くにある一軒家から、すごくいい匂いがして。
 つい立ち止まってきょろきょろしてたら家主さんが出てきて、蝋梅だよって教えてくれたんです。
 それで、一枝もらっちゃって」



 小野寺は木佐みたいに人懐っこいわけじゃない。
 美濃みたいに笑顔を崩さずにいられるほど大人じゃないし、羽鳥みたいに冷静沈着で臨機応変っていうわけでもない。
 でも、不思議とあいつの傍は落ち着く。
 根の素直さが滲み出てて、警戒心を抱かせない。
 いい人ですよねーとか笑ってるけど、普通ただの通りすがりで一枝なんかもらえねーよ。



「ホントいい匂いだね」
「律っちゃん、それ貸してー。花瓶に挿すから」
「あっはい、すみません」
「編集長に怒られてきな」
「‥‥‥‥‥‥‥うぅ、はい」



 木佐が蝋梅を持っていき、匂いが急激に薄れる。
 お陰で俺はきちんと小野寺を叱ることが出来た。
 目の前でびくびく縮こまってるのを、ちょっと可愛いななんて思ってたら、木佐が戻ってきた。

 同時に、あの匂いも。



「‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥高野さん?」



 蝋梅は“Winter Sweet”の名の通り、冬の季語。
 その花が落ち匂いが消えると、季節は梅、桃、桜と春へ流れていく。

















 春。























 俺たちが出会った季節。























「小野寺」
「は、はい」
「もうすぐ春だな」
「‥‥‥‥‥‥? まあ、あと何ヶ月もないですね」



 一度として祝えなかった律の誕生日も、やっと巡ってくる。
 お前が俺をどう思ってるかなんか、この際どうでもいい。
 ただどろどろに甘やかしてやりたい。

 この世に生まれてきてくれたお前を。



 俺と出会ってくれた、お前を。



「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥高野さん?」
「なんだ」
「なんでそんな機嫌いいんですか。気持ち悪いんですけど」
「何、そんなに俺に怒られたいわけ? Mか」
「違います。許していただけるなら早く席に行って仕事がしたいです」
「お咎めナシだとでも思ってんの?」



 ぎりぎり遅刻じゃなかったにしても、こいつは新人。
 油売ってたことも判明してしまったわけだし、他の部員の手前、ちゃんと反省してもらわないと困る。
 やっぱり‥‥‥‥‥‥とがっくりと肩を落とす律を、俺は。





 ひどく幸せな気持ちで眺めていた。





 ひっくり返したら困るからと、図らずも俺のすぐ傍、窓際に置かれた蝋梅。

 フロアを満たす晩冬の香りは甘い。











 律のいる二度目の春に、もうすぐ、手が届く。