同じクラスにずっと好きな男の子がいた。
でも主人公はチョコレートを始めとする甘い物が大の苦手で、お菓子にトライしてみるものの撃沈。
やってきてしまったバレンタイン、結局どこにでもある小さなチョコレートを一粒、彼の机に忍ばせた。
人気者の彼。既にその中はたくさんの手作りお菓子でいっぱい。
放課後、彼は苦笑いを浮かべながら、大量のプレゼント達を鞄に入れて帰って行った。
その拍子に落ちてしまったらしい小さな小さな市販のチョコレートは、気付かれることなく椅子の上に残されたままで。
――――――――――――――それから?
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥却下」
思わずため息をつきながら言った途端、その場の空気が変わった。
といっても、息を呑んだのはアシスタントたち。
俺の正面にいる織田先生――――――もとい律は、返事を予想していたのかGペンを弄び続けている。
俺と目を合わせようとはしない。
再びため息が漏れる。
「あのな、話そのものが駄目ってわけじゃない。どっちかというと王道だけど、お前は話運びが上手いから懸念はない」
「‥‥‥‥‥」
「ただ、ラストだけはどうにかしろ。主人公が教室の窓から男の子を見送ってフェードアウトじゃ、物足りないし切なすぎるだろ」
「‥‥‥‥‥‥‥なんでバレンタインだからって、主人公が幸せにならなきゃいけないんですか」
ぼそり。
律が放った本音であろう台詞に、俺は頭を抱えたくなった。
大人気の少女漫画家・織田律には、ひとつ苦手分野がある。
それは、バレンタインやクリスマスといった、女の子なら誰もがときめくようなイベントもの。
本人曰く「三次元で恋人達が盛り上がる年中行事はすごい冷める」そうで、だから今まで、そういう類の作品はひとつもなかった。
もちろん、多数の出版社の何人もの編集が拝み倒してきた。
でも織田律は首を縦には振らず、しつこくお願いしてプロットにこぎつけてもハッピーエンドものを思いつけず、
第三者がネタを提供して渋々ながらネームに取りかかったら全く進まずどうしようもなくなって最終的に落としたとか。
しかも嫌々やらされたことで機嫌が地を這い、同時進行の漫画にも支障が出かけたとか。
それ以降、「小野寺先生に企画は持っていかない」のが、担当編集の不文律になっている。
そんなのもちろん知ってるけど、やってる俺。
「あんまりしつこく言うとお前描けなくなるから、これ以上言わねーけどさ。
少女漫画読む子たちは自分と重ね合わせてるから、基本ハッピーエンドを期待してるわけ。
特に、お前が嫌いなバレンタインやらクリスマスやらはな」
「‥‥‥‥‥‥だからって、主人公がそんな簡単に幸せになっていいものなんですか」
「お前の漫画は主人公がそれなりに傷ついて苦しんで悩んでやっと成就するから、それがポリシーなのはわかる。
でも連載連載じゃねーんだから、いろんな要素入れるのは無理だろ?」
言い募っても、ふてくされたようにぎゅっと眉間に皺を寄せ、そっぽを向いている律。
こいつに合わない仕事だってことくらい、最初からわかってる。
でも俺はなんとかして、描いてほしかった。
だって、多分。
自惚れなのかもしれないけど。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥もうちょっと考えさせてください」
律が、現実の恋愛にこうも拒絶反応を示すのは、俺のせいなのかもしれないから。
俺と律は十年前、同じ高校の先輩後輩で、恋人だった。
でも付き合って数ヶ月と経たないうちに、律が勝手に勘違いを起こして行方不明になり、十年もの間それっきり。
別れたつもりもないまま時間だけが過ぎていき、俺は虚しさと怒りを募らせた。
だけど、あいつが「好きかって聞いたら鼻で嗤われた」なんて馬鹿げた理由でいなくなったそもそもの原因が、
俺が一回も好きだって言ってなかったからだと知り、かなり混乱した。
確かに、言わなかったかもしれない。
照れくさかったとか、セックスしたからそれでわかってるだろうと思い込んでたのも、あるんだと思う。
律が初なのは当然わかってた。
でも思った以上に鈍かったらしい。
そんなの、きっと言い訳にもならないけど。
確かなのは、故意じゃないとはいえ、俺が律を傷つけたってことだ。
十年経っても正面切って恋愛と向き合えないくらい、深く。
プロットにダメ出しした夜、俺は打ち合わせだと言って律の家に再度上がり込み、遅い夕食の支度を始める。
それを怪訝そうに眺めてくる、髪と同じく色素の薄い瞳。
「‥‥‥‥‥‥‥打ち合わせじゃないんですか」
「それもあるけど、まずメシ。まだ食ってないだろ? 俺もまだだし」
「だからってここで作る必要があるんですか?」
「お前いつもコンビニ弁当とかで済ませてるって、アシスタント達に聞いたから。
織田先生に倒れられたらこっちはたまったもんじゃないからな」
織田律の漫画は連載が多い。
二人の世界観の違いだったり、友達との関係だったり、そういう切り捨てられがちなリアルさを丁寧に描き出していくためだ。
文字通りの紆余曲折の後迎える割とほのぼのした結末は、
予想と違うような衝撃はなくとも、はらはらしながら読み進めていた人間をやさしく和ませる。
伏線は多めだけど、今まで漁ってきた無数の小説のお陰か話の組み立てが上手く、気にならない。
ただ、総じて、甘さが少ないという評もある。
俺も同意見。
とにかく、うちだけじゃなく多数の出版社で掲載以外にもコミックス化・アニメ化・ドラマ化と目白押しのこいつに、
栄養失調なんて馬鹿げた理由で倒れられるわけにはいかないんだ。
‥‥‥‥‥もちろん建前だけど。
大量に干してあるコップを片付けながらちらっと律の手許を見ると、ぐちゃぐちゃに書き直された例のプロット。
未だに睨めっこしてる不機嫌な様子からして、多分あれから進展がないんだろう。
どーすりゃいいんだか‥‥‥‥。
「‥‥‥‥あのさ」
「‥‥‥‥‥‥なんですか」
「お前って俺が初恋で、ずっとそれ引きずってんだよな」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ハア?」
うげ、やべ。
言葉を選び間違えたみたいだ。
てかあんな般若みてーな顔もできるんだなあいつ。
高校の時は照れまくってパニクって挙動不審なのしか見たことなかったから。
再会してからは逆に怒ったりジト目とかされることばっかだけど。
「あー‥‥‥‥いや、俺が言いたかったのは。今まで俺以外に付き合ってたヤツいたのかって話で」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥いましたよ」
まあそうだろう、俺が好きで忘れられなかったならいるわけないよな。
と、口を滑らせようとして。
食材を準備する手が、一瞬、止まった。
「‥‥‥‥‥‥‥いたのか?」
「‥‥‥‥‥馬鹿にしてんですか?」
「いや、つか、マジで?」
「いましたよ。彼女なら」
こいつの知り合いを通して、話は聞いたことがあった。
留学して、婚約者がいて、彼女もいるって。
でもあいつは、行方不明ではあるけどあんなに俺のこと好きだったんだから、今もまだ俺を好きなはずで。
そんな器用なことできるヤツじゃないって、思ってた。
あぁ、そうか。
いたんだ。
俺以外にも、恋人。
初めてなのは確かだけど、この十年で唯一じゃなくなってたんだ。
いや、俺だって人のこと言えない。言えないけど。
「それがなんですか。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ていうかどうしたんですか、鍋沸騰してますよ」
「あー‥‥‥‥‥‥、」
やばい、な。
情けね。
俺は火を弱めて、ゆっくり目を上げる。
怪訝そうな律の顔。
自嘲が過ぎて、しかもそれをずっと好きなヤツに見られてて。この状況に嗤ってしまった。
「‥‥‥‥‥‥‥27にもなって、嫉妬なんかするとは思わなかった」
これ、結構苦しい。痛い。
やりきれなさで泣きたくなってくる。
どうしてあの時言わなかったんだろう。
ずっと抱いていた、たった一言を律に伝えてさえいれば。
きっと、こんなことには、ならなかったのに。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥たかの、さん?」
「‥‥‥‥‥‥悪い、俺メシ作るのに集中するから。しばらく放っといて」
「いや、あの、さっきのはなんの話だったんですか」
「あー、そういう付き合ってた時の高揚感的なものを思い出せば、プロットもいい方に行くんじゃないかって。それだけ」
もう俺とのことは忘れたって言ってたから。
事実、図書室であいつから告白してきたとか、俺の家で初めてセックスしたこととかそういう大きい出来事以外、
ほとんど記憶から消え去ってしまっているようで。
編集業で培った話術を駆使していろいろ聞き出そうとすればするほど、それが明らかになるばかりで。
あの時は本気で、一人になってから、少し泣いた。
やっと目の前に立てたのに、なんでこんなことになってるんだろうな。
ひとつ溜息をついて、もうその後は無心で料理をした。
律はぼんやりと、プロットを眺め続けていた。
小さなチョコレートを弄びながらなんとか気持ちを落ち着けた主人公は、黄昏の中ゆっくりと校舎を出る。
ちょうど校門に差し掛かった時。
一度は帰ったはずの彼が、なぜかまた現れた。
驚く彼女に、「チョコは?」と宣う。
そんなものない、みんながみんなくれると思うなと主人公は怒るのだが。
「お前のチョコが一番欲しかったんだけど」
真面目に言う彼に驚き、思わず先程のチョコを差し出す彼女。
もっといいものをたくさん受け取っているはずなのに、彼は心底嬉しそうに咲い、
「ホワイトデーまで待てないから、今お返しするわ」とキスをする――――――。
「有り得ない、絶対有り得ない」
ぶつぶつ言いながらもペンを走らせ続ける律。
俺的には、お前が一番有り得ねーよ。
アシスタントには一人残らず聞いたけど、誰も律に助言したヤツはいなかった。
だから例の夕食の翌日、なんの連絡もなしにFAXされてきたプロットは、こいつが一人で考え出したものということになる。
しかも、考えたはいいけど描けないんじゃないかというこっちの不安をよそに、
いつもに比べればペースこそ遅いもののネームも下絵も問題なく、このままいけば期日内に原稿回収できそうだ。
何があったのか、皆目見当もつかない。
でも絶対に何かがあって、それがきっかけで、そういうのもアリなのかもしれないって心のどこかで思い始めてるんだろう。
些細だけど、後々大きくなるだろう心境の変化があったことはよくわかった。
だって織田律の漫画は、律の恋愛観そのものだから。
俺はいかにも不満そうに描き続ける律を、はらはらしながら、でもなんだか嬉しい気持ちで眺めていた。
用意したのはサラダと野菜スープとパンケーキに、チョコフォンデュ、生クリーム、カットした林檎・蜜柑・苺。
それを見た律の第一声は「何事ですか?」だった。
「今日バレンタインだから」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥俺そーいうの嫌いなんですけど」
「甘いものは好きだろ?」
「それは、まぁ‥‥‥‥‥」
あの漫画は、織田律の初めてのバレンタインものであると同時に、初めての少女漫画らしい少女漫画として業界では有名になった。
二言目にはそれを描かせた俺の力量がどうのこうのと言われているらしいが、実際のところ俺は関係ない。
あんな状態で、律の気持ちを変えたのが俺だとは思えない。
それが少し寂しいけど。
それでも、律が前を向こうとしているのなら、構わなかった。
「‥‥‥‥‥‥‥いただきます」
「どーぞ」
律は俺の飯を大人しく食べるようになった。
大量生産品より手作りのがおいしいってわかってくれたらしい。
俺も一緒に食べるから、必然的に俺といる時間が長くなるけど、それを面と向かって拒絶されることもなかった。
基本始終だんまりで、恋人同士の食卓っていう雰囲気にはほど遠いけど。
それでも、視界に入れることすら叶わなかった十年間に比べれば奇跡なくらい幸せだ。
甘党二人が寄って集ってつついたから、結局パンケーキもトッピング類もあっという間に全部なくなった。
「なあ、律」
「名前で呼ばないでください」
あ、それはやっぱ嫌なんだな。
洗い物をしながら、俺は苦笑する。
「じゃあさ、織田先生。お返しは?」
「‥‥‥‥‥お返し?」
「ホワイトデーまで待てないんだけど?」
にやっと笑うと、連載の下絵を描いていた手を休め、呆れた顔でこっちを見てくる。
ちなみに今日は差し迫った原稿もなく、律がやらなきゃいけないプロットやネームばっかりだから、
アシスタントは俺と入れ替わりに全員帰った。
一人だともっと静かなんだろうけど、ここは無駄に広いから、こうして喋っていても妙な静けさを感じる。
律は少し考えていたけど、おもむろに机を漁り始めた。
何してるのか気になって、片付けを終えた俺はそっちへ近づく。
そしたら突然、手を突き出された。
「‥‥‥‥‥‥‥‥小さいとかいう文句は聞きませんからね」
ころんと、俺の掌に転がったもの。
それは小さな小さな、数粒の四角いチョコレートだった。
あの漫画を描く時、参考のために買ったやつだろう。
別に俺のために用意してくれたわけじゃないことくらいわかってる。
わかってるけど、
「‥‥‥‥‥‥‥‥そんな普通に喜ばれても困るんですけど‥‥‥‥‥」
「いや、だって普通に嬉しいから」
今日バレンタインなんだよな、と改めて思った。
律がいる、初めてのバレンタイン。
俺はこれからこいつの傍にいられる。
こいつが少女漫画家を続ける限り、俺がエメ編にいる限り。
幸せなんだ。
たったそれだけのことなのに。
お前はもしかしたら、望んでなんかいないのかもしれないけど。
それでも。
無意識に、体と心が求めるままに、手を伸ばしていた。
「っぅわ、ちょ、高野さん!!?」
「いーだろ、ちょっとくらい。減るもんじゃなし」
愛おしい体温。
懐かしいにおいがする。
一応こいつも成人男性だから、腕にすっぽりと収まりはしないけど。
やっぱり俺が好きなのはこいつなんだなぁって、すごくしっくりくる。
パズルのピースが填ったような。
今はまだ、抱きしめ返してくれなくていいから。
でも、きっといつか。
「‥‥‥‥‥‥‥‥あの、減るから離してください」
「何が減るんだよ」
「寿命と神経」
可愛くないことを言いやがるから、唇も奪ってやった。
Ich liebe meine liebe
(俺はお前を、そしてお前のことが好きな俺を、今も昔も好きだって胸を張って言えるよ)