小さなチョコレートを弄びながらなんとか気持ちを落ち着けた主人公は、黄昏の中ゆっくりと校舎を出る。
ちょうど校門に差し掛かった時。
一度は帰ったはずの彼が、なぜかまた現れた。
驚く彼女に、「チョコは?」と宣う。
そんなものない、みんながみんなくれると思うなと主人公は怒るのだが。
「お前のチョコが一番欲しかったんだけど」
真面目に言う彼に驚き、思わず先程のチョコを差し出す彼女。
もっといいものをたくさん受け取っているはずなのに、彼は心底嬉しそうに咲い、
「ホワイトデーまで待てないから、今お返しするわ」とキスをする――――――。
「有り得ない、絶対有り得ない」
ぶつぶつ言いながらもペンを走らせ続ける律。
俺的には、お前が一番有り得ねーよ。
アシスタントには一人残らず聞いたけど、誰も律に助言したヤツはいなかった。
だから例の夕食の翌日、なんの連絡もなしにFAXされてきたプロットは、こいつが一人で考え出したものということになる。
しかも、考えたはいいけど描けないんじゃないかというこっちの不安をよそに、
いつもに比べればペースこそ遅いもののネームも下絵も問題なく、このままいけば期日内に原稿回収できそうだ。
何があったのか、皆目見当もつかない。
でも絶対に何かがあって、それがきっかけで、そういうのもアリなのかもしれないって心のどこかで思い始めてるんだろう。
些細だけど、後々大きくなるだろう心境の変化があったことはよくわかった。
だって織田律の漫画は、律の恋愛観そのものだから。
俺はいかにも不満そうに描き続ける律を、はらはらしながら、でもなんだか嬉しい気持ちで眺めていた。
用意したのはサラダと野菜スープとパンケーキに、チョコフォンデュ、生クリーム、カットした林檎・蜜柑・苺。
それを見た律の第一声は「何事ですか?」だった。
「今日バレンタインだから」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥俺そーいうの嫌いなんですけど」
「甘いものは好きだろ?」
「それは、まぁ‥‥‥‥‥」
あの漫画は、織田律の初めてのバレンタインものであると同時に、初めての少女漫画らしい少女漫画として業界では有名になった。
二言目にはそれを描かせた俺の力量がどうのこうのと言われているらしいが、実際のところ俺は関係ない。
あんな状態で、律の気持ちを変えたのが俺だとは思えない。
それが少し寂しいけど。
それでも、律が前を向こうとしているのなら、構わなかった。
「‥‥‥‥‥‥‥いただきます」
「どーぞ」
律は俺の飯を大人しく食べるようになった。
大量生産品より手作りのがおいしいってわかってくれたらしい。
俺も一緒に食べるから、必然的に俺といる時間が長くなるけど、それを面と向かって拒絶されることもなかった。
基本始終だんまりで、恋人同士の食卓っていう雰囲気にはほど遠いけど。
それでも、視界に入れることすら叶わなかった十年間に比べれば奇跡なくらい幸せだ。
甘党二人が寄って集ってつついたから、結局パンケーキもトッピング類もあっという間に全部なくなった。
「なあ、律」
「名前で呼ばないでください」
あ、それはやっぱ嫌なんだな。
洗い物をしながら、俺は苦笑する。
「じゃあさ、織田先生。お返しは?」
「‥‥‥‥‥お返し?」
「ホワイトデーまで待てないんだけど?」
にやっと笑うと、連載の下絵を描いていた手を休め、呆れた顔でこっちを見てくる。
ちなみに今日は差し迫った原稿もなく、律がやらなきゃいけないプロットやネームばっかりだから、
アシスタントは俺と入れ替わりに全員帰った。
一人だともっと静かなんだろうけど、ここは無駄に広いから、こうして喋っていても妙な静けさを感じる。
律は少し考えていたけど、おもむろに机を漁り始めた。
何してるのか気になって、片付けを終えた俺はそっちへ近づく。
そしたら突然、手を突き出された。
「‥‥‥‥‥‥‥‥小さいとかいう文句は聞きませんからね」
ころんと、俺の掌に転がったもの。
それは小さな小さな、数粒の四角いチョコレートだった。
あの漫画を描く時、参考のために買ったやつだろう。
別に俺のために用意してくれたわけじゃないことくらいわかってる。
わかってるけど、
「‥‥‥‥‥‥‥‥そんな普通に喜ばれても困るんですけど‥‥‥‥‥」
「いや、だって普通に嬉しいから」
今日バレンタインなんだよな、と改めて思った。
律がいる、初めてのバレンタイン。
俺はこれからこいつの傍にいられる。
こいつが少女漫画家を続ける限り、俺がエメ編にいる限り。
幸せなんだ。
たったそれだけのことなのに。
お前はもしかしたら、望んでなんかいないのかもしれないけど。
それでも。
無意識に、体と心が求めるままに、手を伸ばしていた。
「っぅわ、ちょ、高野さん!!?」
「いーだろ、ちょっとくらい。減るもんじゃなし」
愛おしい体温。
懐かしいにおいがする。
一応こいつも成人男性だから、腕にすっぽりと収まりはしないけど。
やっぱり俺が好きなのはこいつなんだなぁって、すごくしっくりくる。
パズルのピースが填ったような。
今はまだ、抱きしめ返してくれなくていいから。
でも、きっといつか。
「‥‥‥‥‥‥‥‥あの、減るから離してください」
「何が減るんだよ」
「寿命と神経」
可愛くないことを言いやがるから、唇も奪ってやった。
Ich liebe meine liebe
(俺はお前を、そしてお前のことが好きな俺を、今も昔も好きだって胸を張って言えるよ)