It’s All Right.








「なんか今西門に、すごく可愛い中学生がいるらしいよ!!」







 そんな台詞を小耳に挟んだのは、ゼミが終わりまさにその西門へ向かう途中。
 ちょっと見に行こうよ、なんて言い合ってる女の子数人。







「‥‥‥‥‥‥お前の弟じゃねぇの?」
「‥‥‥‥だろうな」







 横澤の呆れ声に、俺は苦笑いを返した。





















 離婚の話は予想通りすぎて、驚きもしなかった。
 むしろ一年弱よくもったなってくらいだ。
 うちの場合最初は俺が16になるまでなんとか続いたけど、
 今回は再婚同士だから、また離婚することにそこまで抵抗はないのかもしれない。

 そんな冷めたことを考えながら、俺は親も期待してるだろうことを口に出す。



「じゃあ俺、このまま家出るから。大学の近くで一人暮らしする」
「そう? 悪いわね」
「学生の間は家賃とか学費とか、生活費もきちんと出すから安心してくれ」



 手切れ金、か。
 学費も生活費もって、俺前の父親からももらってんだけど。
 どんだけなかったことにしたいわけ。


 他は母親と俺の引っ越しとか、そんなので話は終わるはずだった。











 けど。



























「俺、お兄ちゃんと一緒に暮らしたい」



























 律の父親も俺の母親も、突然割って入った言葉に目を丸くした。

 でも多分、一番驚いたのは俺だろう。

 聞き間違いかと思って凝視してたら、泣きそうな顔を俯かせた律は、もう一度言った。







「俺、お兄ちゃんと一緒がいい」
「律、子供みたいなことを言うな。政宗くんに迷惑だろう」
「‥‥‥‥‥‥‥‥っ」







 迷惑?
 とんでもない。

 我に返った俺は、律を咎める父親に慌てて申し出た。







「そんなことありません。迷惑なんかじゃないです」
「いや、しかし‥‥‥‥‥」

「俺も、律と一緒に暮らしたいです。‥‥‥‥‥‥律がいいなら」







 律の父親はそれでもしばらく渋って。
 でもついには律がぐずり出して、結局折れてくれた。
 あとは何か知らないけど他人になる二人がまた喧嘩腰になり始めたから、
 鼻をぐすぐすしてる律にティッシュを渡し、ひとまず俺の部屋に引っ張り込んだ。
 しゃくり上げながら、一生懸命に言葉を紡がれる。







「ごめんねお兄ちゃん、俺、迷惑になるかもしれないけど。

 でも、お兄ちゃんの邪魔とかしないから、料理もできるようになるから、だから、」











 ああもう、いいんだよそんなの。





























 衝動的に、俺は律を抱きしめていた。





























 初めて腕の中に抱き込んだ体は、華奢で、骨張ってて。

 あたたかくて。















 律のにおいがした。















「ありがとな、律」
「‥‥‥‥‥‥え、? おにい、ちゃ」
「すげー嬉しい‥‥‥‥」















 親の離婚なんか興味なかった。
 でも、ただひとつ、律との関係がなくなるのが悲しかったんだ。
 義理だけど戸籍上兄弟で、一番近くにいることを許されていたのに。
 親の都合で家族になって、親の都合で他人に戻るなんて、考えられなかった。考えたくなかった。
 だからこの一年弱の生活や感情に全部蓋をして、何もなかったみたいに離れようって。

 そう思ってたから。







「‥‥‥‥‥律」
「ん‥‥‥‥‥な、に?」
「俺たちはもう、兄弟ではなくなるけどさ。これからまた、よろしくな?」
「ん、うん‥‥‥‥‥っっ」







 声を詰まらせながらこくこくと頷くのがいじらしくてたまらない。
 嗚咽でひきつる背中をゆっくり撫でながら、俺はふわふわこそばゆい気持ちを持て余していた。







 ただもう、かじりついて歯形を残したいくらい、こいつが可愛くて。















 それから、俺たちは四月を待たず、俺の母親が家を出るより先に引っ越した。
 決まった大学は高校とそんな離れてないところにある。
 借りたアパートは、高校の方が少し近いくらい。
 表札は“高野”と“小野寺”どっちも書いた。
 俺の名字が戻ってしまったわけだから仕方ないんだけど。



 でも律は今まで通り俺を「お兄ちゃん」と呼び、努力はするものの料理も掃除もセンスが皆無で、
 ねだりにねだって父親の書斎の本をほとんど全部持ってきてしまうくらい本が好きで。











 変わらず、俺の傍にいてくれる。





















「って、囲まれてるし」











 大学の四時限目が終わった頃、高校の授業も終わる。
 月・水・木は、履修したのはその四限まで。
 通う場所が変わっても一緒に家を出たり買い物したりする習慣が抜け切らない俺たちは、
 位置的にも軽い散歩程度の距離だから、途中まで行き帰りを共にしていた。
 でも今日は俺が遅かったからか、律が迎えに来てくれたようで。
 割とマイナーな西門で五、六人の女子大生たちに詰め寄られているあの学ランは、ほぼ確実に律だろう。
 まあ学ランって普通中学だしな。
 あいつ線細いし、身長だってそこまで高くないし、目もでかくて幼めな顔立ちだから、中学生でもなんの問題もなく通るだろう。
 あーやべー、困った顔も可愛いんだけど。



「‥‥‥‥‥‥‥‥おい、弟に見惚れてんじゃねぇよ」
「今は弟じゃねーって」
「そういう問題かよ。てか助けてやらねぇのか」



 助けるに決まってる。
 あいつといる時間が減る。
 遠くから眺めてるなんて物足りない。
 手を繋ぐくらいの距離が一番しっくりくるんだ。

 そりゃあもっと近くてもいいけど、心臓が過重労働で止まりそうになるから自重。











「律」











 とにかく律を取り返そうと、俺は人垣に向かって呼びかける。
 年上にきゃいきゃい言われて困惑していた律は、すぐ気がついてくれて。























「お兄ちゃん!!!」























 ぱあっと明るくなる表情。
 人の隙間を縫ってぱたぱた走ってくる。
 何これ。
 じゃれついてくる子犬? 甘えたな猫?
 とりあえず色素の薄い頭を撫でたら、「えへへ‥‥‥‥」と嬉しそうに咲う。
 ああ、俺鼻血出てないよな‥‥‥‥?







「‥‥‥‥‥政宗。顔ゆるみすぎ。気色悪い」







 横澤に言われても気にならない。
 というかそもそも聞こえてない。







「悪かったな、待たせて」
「ううん、全然!! こっちが早く終わっただけだから」







 高二っていえば思春期真っ只中だし、親も離婚したばっかで荒れてたって全然おかしくないのに、
 こいつは癒しオーラを放ちまくってる。
 やわらかいクッションみたいに俺を包み込んで、ほっとさせてくれて。やさしい気持ちにしてくれる。
 こいつの丸さに触れて、俺も丸くなる。
 構内とか人の多い場所、俺は反射的に知らず気を張ってしまうけど、こいつといるとそれが嘘みたいに溶けて無くなる。
 本当に、不思議だ。



 律は俺にとって、他の人間と、決定的に何かが違う。











 本当に律が特別なのか、俺にとって律が特別だからなのかは、よくわからないけど。











 その時、大袈裟すぎるため息が聞こえて、自分の思考と律の髪の触り心地に没頭していた俺は我に返った。







「あーあ、うざってぇ。‥‥‥‥‥‥俺帰るからな」
「あ? ああ」
「よっ横澤さん、さよならっ」







 律が声を掛けるけど、横澤は無視する形でさっさと行ってしまった。
 こいつらは一応顔見知りだ。律の話は何回もしてたし、初めて二人が顔合わせた時ちゃんと紹介したから。
 でも横澤は俺と律がセットになった途端にいなくなる。
 どうやら律のことが嫌いらしい。
 理解できないけど‥‥‥‥まあ本気になられるよりマシか。
 律に群がっていた女子大生もいつしか散っていた。















 俺と律が、二人きり。















 横澤の言う通り、相当しまりのない表情をしている自覚はある。
 でも抑えようがないんだからしょうがないだろ。







「ああ、そうだ律。あそこ」
「え?」







 律にずっと教えたい場所があった。
 西門にほど近い、7階建ての建物。







「あれ、なんだと思う?」
「え? 教室じゃないの?」
「いや、図書館棟。上から下まで」







 途端。

 律の目が輝いた。







「え、図書館!? あれ全部!? すっごーい!!!」
「おう。だからさ、一緒に来よう。今度の週末」
「‥‥‥‥‥えっ? でっでも俺、高校生だし、ここの生徒じゃないし」
「私服ならわかんねーよ。普通にしてりゃ大丈夫だ」
「うー、でも‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥気にならねーの?」
「なる!!!」
「じゃあいいだろ。決まり」
「んー‥‥‥‥‥うん、」



 渋るのを押し切る形で強引に話をつけた。
 生真面目なのは律のいいところであり、悪いところでもある。
 当然ながら、俺が好きなところでもあるわけだけど。

 内部の品揃えが相当気になるらしく、穴が空くほど図書館棟を見つめる律に、つい笑みが零れる。







「律」
「なに、」
「帰るぞ」
「あ、うん」
「土曜でいいか?」
「‥‥‥‥‥うん」
「じゃあ夕飯どうする?」
「んー‥‥‥‥‥‥‥中華っぽいスープ食べたい」
「じゃあ酸辣湯に餃子作って入れるか」
「うんっ作る!!!」
「主食は野菜炒飯でいいよな」











 変わらない。
 親が離婚して進学して進級しても、変わらない。



 帰り道は多少違うけど、一緒に向かうスーパーも、繋ぐ手も変わらない。
 俺と律は同じくらい背が伸びてるから、身長差も変わらない。
 視界で揺れる、色素の薄い髪の位置も。
 俺に向けられる笑顔も。











 一緒にいられなくなるくらいなら、このままがいい。



















 このままで、いいんだ。