knowing me, knowing you





 もやもやしていた。



 生まれて初めて感じる、焦燥や苛立ちやショックがごちゃ混ぜになったどす黒い色の感情を、俺は完全に持て余していた。
 嵯峨先輩の前っていうだけですぐキャパオーバーして、正常な言動が出来なくなることは自覚済み。
 でも今は、自分でも驚くくらいに冷めていて。







 放課後の図書室、一人本を探していたら、書架の影から突然 先輩が現れた。
 最初こそ心臓が跳ね上がったものの、すぐ気持ちが落ちる。











「もういたのか」











 声を掛けられたら、いつもならあわあわしてろくな返事も出来なかった。

 けど、







「あー‥‥‥‥‥‥はい、さっき。‥‥‥‥‥‥‥‥‥遅かった、ですね?」
「HR長引いたから」
「そうなんですか、」







 些細な会話。
 それが成り立ったのは、普段から考えればものすごい快挙だと思う。
 俺だって他の人となら話くらいできるけど、嵯峨先輩が絡むともう平常ではいられなくなるから。
 でも今は何より先輩の近くにいたくないっていう気持ちが強くて、俺はあんなに吟味して選んでいた本を適当に選び取り、
 すぐ鞄が置いてある机へと踵を返した。

 もともと、あんまり会話をしない俺たち。
 先輩は寡黙な方だし、俺はその近くにいるだけでパニックになってしまって、まともな受け答えなんてとても出来ないから。
 読んだ本とか作家の話で盛り上がることも、あるにはある。でも、ごくたまにだ。

 咄嗟に背中を向けてしまってから、ちょっと失礼だったかなと思ったけど、取り繕おうとまでは考えられなかった。
 結局、余裕なんかないんだ。















 ‥‥‥‥‥‥先輩は違うだろうけど。















 お昼の光景が頭をよぎって、胸辺りで燻っていたもやもやが急に密度を増して体中に広がって、息苦しくなってくる。























「律」























 名前を、呼ばれた。
 腕を掴まれたのはあんまりに不意打ちで、圧迫されていた喉がひゅっと不格好な音を出す。
 驚いて反射的に振り返ると、簡単に目が合ってしまった。
 逸らす前に、嵯峨先輩は図書室の出入り口の方を顎でしゃくる。
 ついきょとんとしてしまった。

 帰る、ということ?
 しかも先輩だけでなく、俺も一緒に?

 咄嗟に、脳内に保存済みの本や雑誌の発行日をさらってみるけど、今日は特に何もなさそうだ。
 先輩の家に行くとしても、今まではここで本を読んでからだったのに。
 約束、なんてもの、俺たちはしたことがないし。
 困惑していたら、今度は口に出して「帰るぞ」と言われた。
 ここが図書館だってことを意識してるんだろう、俺にしか聞こえないように。
 断る理由もないし、でも先輩には理由があるのかもしれないから、俺は頷くしかない。
 席を確保するために置いていた鞄を急いで取ってきて、さっき選んだ本を借りてから一緒に学校を出た。

 出たんだけど。















「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」















 結局、いつもの帰り道。
 会話はなく、俺は先輩の数歩後ろを歩くだけ。
 一体なんだったんだろう、と前を行く背中を見るけれど、やっぱりいつもと変わらない。
 ‥‥‥‥‥まあいいか、別に。
 今日はあんまり一緒にいたくなかったし、好都合だ。
 どんどん募っていく嫌な気分で窒息してしまう前に家へ帰って、本の世界にどっぷり浸かってしまった方が利口というもの。
 だからいつもの分かれ道、俺はろくに先輩を見もせず「それじゃあ失礼します」と挨拶をし、足を進めようとした。



















「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥っえ?」



















 がしり、とまた腕を掴まれて、一瞬バランスを崩しそうになる。
 否応なしに引っ張られて、俺は多々良を踏みながら先輩に引きずられていく格好になった。
 俺の家の方向じゃない。

 先輩の家へ続く道。







「えっ? ちょっ‥‥‥‥‥あの、先輩?」







 上手な問いかけが出てこなくて、言葉が詰まる。
 握りしめられた左の手首が、そこだけ異常なくらいの熱を持ってじんじんしてくる。
 先輩の右の小指がほんの少しだけ、学ランの袖じゃなく直に俺の肌に触れていて、それがまた俺の鼓動を早くする。
 やばい、この感覚。キャパオーバーしそう。
 代わりに、あんなに重苦しかったもやもやが急激に目減りしている。











「お前さ、なに怒ってんの」
「‥‥‥‥‥‥へ?」
「家着くまでに教えなかったら、無理矢理にでも聞き出すから」











 言われていることを理解するのに、少しばかり時間を要した。
 つまり、俺の機嫌が悪いことは先輩にばれている。
 俺は先輩の家へ連行されている。
 その道中で理由を白状しなければ、強硬手段に打って出る、と。



 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥なんで?







「な、なんで‥‥‥‥‥‥」
「あ?」
「別に、いいじゃないですかなんでも。そんなの言う必要」
「ある。いーから言え」







 え、横暴!!?

 何やらいつになく強引な先輩に、俺は混乱してくる。
 なんで、どうして?
 確かにこんなもやもやは初めてだし、先輩の前でキャパオーバーになってないのも初めてだし、近くにいたくないって思ったのも初めてだけど。
 だけど、先輩のこんな態度も初めてだ。
 来る者を拒むかどうかわからないけど、少なくとも去る者は追わない主義の人かと思っていた。
 でも俺、逃げようとしたところを今完全に捕獲されてるし。






























 先輩って、こういう一面もある人なんだ。





























「‥‥‥‥‥律」
「は、はい!!?」
「言う気ないの?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥へっ?」



 電柱脇にちょこんと設置されたポストが目に入る。
 あれを通り過ぎ、カーブを曲がり、あの赤い色が見えなくなったところで、先輩の家に着く。
 それまでに言わなかったら無理矢理‥‥‥‥‥‥‥‥‥って、何されるんだろう。
 想像つかないから、逆に怖い。



「え、えっと‥‥‥‥‥っ、でもあの、そんなに深い意味があるわけじゃなくって、その、」
「‥‥‥‥‥‥急かしといてなんだけど、いーよ、ゆっくりで」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥あの」





 今気付いた。
 先輩、いつもよりちょっとだけ、歩くペースが遅い。
 普段は小走りになって追いかけなきゃいけない時もあるけど、今日はまだ一回も、そんなこと、ない。



 俺のため?







「‥‥‥‥‥‥‥‥先輩って、」
「うん」
「両利き、なんですか?」
「いや、右利き。ただ箸なら左手でも使える。字は書けねーけど」







 なんで? と、至極まっとうな問い返し。
 ちょっと言い淀んだ。
 なんか、悪いことしたみたいで。







「‥‥‥‥‥‥今日、5限目が移動教室だったんです。先輩も、ですよね?」
「ああ」
「たまたま、階段のところで、先輩と女の人が話してるのが聞こえて」











 嵯峨くん、両利きなの?

 お弁当食べる時は左手でお箸使ってるけど、黒板に字書く時は右手だよね?

 へえ、そうなんだ! 知らなかったー。











 先輩の声は聞こえず、クラスメートとおぼしき女の人の弾んだソプラノだけが耳に入った。
 全然知らなかった。
 そもそも嵯峨先輩が右利きだっていうことも知らなかった。そっちの方が一般的だし、多分そうだろうと無意識に思ってはいたけど、
 実際に見て知っていたわけじゃない。
 ましてやお箸は左なんて、昼休みを一緒に過ごしたことのない俺が知るはずもない。







 言葉が続かない。







 自分が知らなかったことを、他の人、しかも先輩と女の人との会話で知るなんて、最悪だ。
 何が最悪なのかはわからないけど、でも心臓がどんどん重くなって、俯きがちになる。
 荒れ狂う凶悪な気持ちをなんとか飼い慣らそうとする。



 俺は自分の内側の方に必死で、前を歩く先輩が何か呟いたのは耳に入ったけど「嫉妬かよ」という言葉まではわからなかった。
 慌てて聞き返したけど、なんでもって言われてしまい落ち込む。
 そうこうしているうちに、嵯峨先輩のお家に到着してしまった。
 ああでも、とりあえず理由は言えたから、無理矢理聞き出されることはないよな。ちょっとほっとする。

 先輩はいつものように鍵を開けて、自分が先に入った。
 必然的に、手を掴まれたままの俺も後に続く。




















 そしてそのまま、閉まったドアに押さえつけられた。



















 先輩の左腕は俺の右肩辺りで肘をつき、右は俺の左脇腹辺りに掌を置いている。
 逃げられないどころか微動だにできない。あんまりに近すぎる。
 心臓が痛いくらいに撥ねる。
 俺の視界には端正な顔だけが映りこむ。







「俺のこと、もっと知りたい?」
「え‥‥‥‥‥‥」
「教えてやるよ。聞いてみ」







 知りたいこと?

 先輩のことで、知りたいこと?

 咄嗟には浮かばないくらい、俺は、先輩のことを知らなすぎる。















「‥‥‥‥‥、‥‥‥‥‥‥‥‥誕生日、」
「ん?」
「先輩の誕生日は、いつですか」
「12月24日」















 12月24日。
 冬生まれなんだ。
 これからの俺にとって、その日はきっと、“クリスマスイブ”じゃなくて“嵯峨政宗先輩の誕生日”になる。






「お前は?」
「え?」
「たんじょーび」
「あ、3月、――――――――――」













 俺より背の高いその人が、顎を引く。
 俺の額を黒髪がくすぐる。
 見たことないくらい、穏やかな瞳。







「うん。3月?」
「さ、さんがつ‥‥‥‥‥‥‥にじゅ、なな、んっ」







 少し乾いた唇が俺のそれに重なった感触がして、咄嗟に目をつむる。
 すぐ離れたと思ったけど、それはほんの1センチ足らずで。
 視界がぼやけるのは、あんまりに距離がないせいか、羞恥か何かで滲んできた涙のせいか。















「律、口開けて」
「‥‥‥‥‥‥‥ぁ、」
「ん。いー子」















 吐息混じりにやわらかく囁かれて、それを感じた唇が、心が震える。















 俺の全身に回っていた毒のような苦々しさは、いつの間にか中和されていた。