ピルルルル

 ピルルルル




 聞き慣れた着信音がして、俺は携帯に手を伸ばした。

 時刻は日付が変わる数十分前。

 それを考えれば、相手が誰かなんて想像はついたはずなのだけど。



 俺は液晶を見てからそのことに思い至った。








「‥‥‥‥‥‥げ」








 渋い表情になったのが自分でもわかる。

 この顔のまま出した声は、きっと同じように渋いものだろう。

 あの人は絶対に気付く。

 それで何を言われるかまではわからないけど、面倒くさくなることだけは確かだ。


 俺は勤めて真顔に戻す努力をしながら、通話ボタンを押した。












「‥‥‥‥‥‥もしもし」

『遅い』












 間を置かず放たれた第一声が、それ。

 努力も虚しく、俺の表情は呆気なく渋面に戻ってしまった。




「‥‥‥‥‥‥電話っていうのは自分の都合がいいから掛けるものですよ。

 相手の都合無視してるんですから、出ただけありがたいと思ったらどうですか」

『あーはいはい。で、何してたんだよ。どうせ本でも読んでたんだろ?』

「違いますよ!!」

『どーだか。だって今日、宇佐見秋彦の新刊の発売日だしな』




 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥さすが、よくご存じで。


 確かに俺の目の前には、その新刊がある。

 でもまだ読んでない。

 俺が向かっている机の上、でも手が届かない位置にある。

 届いたら確実に読みますからね、ええもちろんそうですとも!!!




「俺のネーム直しと高野さんのを見比べてたんです」




 終わったら読むんですよ、とは言わないでおく。

 図星指されたのが癪だから。

 それすらお見通しのような「へえ」という相槌にまた少しイラッとくるけど、思う壺にはなりたくないから抑える。




「それより。なんですか」

『何が』

「何がって‥‥‥‥‥だから、どういったご用件で電話してきたってんですか」

『いや、別に』

「はあ!?」

『たださ、エリカ様のネームで、電話だと声が近くてどきどきするっていうシーンがあったから。

 ホントにそうか確かめようと思って』

「だからってわざわざ俺に掛けないでくださいよ‥‥‥‥‥」

『なんで? 俺が掛けるなら、お前が一番適任だろ』




 いや‥‥‥‥‥‥‥‥、うん。


 スルーしよう。よし、そうしよう。




「切っていいですか。いいですよね」

『ああ? 上司より先に電話切ろうなんて生意気だな』

「大した用もないのに電話してくるそっちが悪いでしょ」

『あるだろ、用』

「知りませんよ。切ります」

『あーもう、待てって』

「なんですか!!!」




 面倒くさい。切りたい。

 俺は本が読みたいんだ。

 宇佐見秋彦の作風が変わったと評されて暫し、新しく出た本はまだ少ない。

 だから今回これを読むのを何ヶ月も前から楽しみにしていた。

 とにかくさっさと切りたくて、一瞬口を閉ざした高野さんの次の台詞を待つ。







 そして、



























『‥‥‥‥‥‥‥好きだ、小野寺』



























 微かな電子音混じりに流し込まれたのは。










 低い、少し掠れた声が紡ぐ、囁くような愛の言葉。










 吐息まで感じられそうなそれに、俺は文字通り凍り付いた。


 俺の呼吸も、時間も、その瞬間確かに止まった。








 何もかもを滞らせたのが高野さんなら、それを再び動かしたのも高野さんで。






『‥‥‥‥‥どーだった?』

「へ、」

『どきどき、した?』






 言われた、途端。

 俺は覚醒して、ぶちっと電話を切った。

 そのまま茫然としていたら再び着信があり、慌てて電源も落とす。




 心臓まで動くのをやめたかと思ったのに、反動なのか今は苦しいくらいに脈打っている。

 逆立ちでもしたみたいに、どんどん血が上ってくる。

 特に、携帯を当てていた右耳は火を噴きそうだ。


 勘弁してほしい。

 あの人は俺を殺す気なのか。そうなのか。




「あ゛ーーー‥‥‥‥‥‥もーー‥‥‥‥‥‥‥‥っ、」




 その日、俺が宇佐見秋彦の新刊を開くことすらできなかったのは、ある意味当然で。
















 ピルルルル

 ピルルルル




『小野寺?』

「‥‥‥‥‥‥‥なんでしょうか」

『‥‥‥‥‥なんか声遠くね?』

「電波のせいじゃないですか?」




 ついでにそれ以降、俺が高野さんからの電話を耳から少し離して受けるようになったのも、きっと言うまでもない。






 ××× love call ×××