「高野さんって‥‥‥‥‥」

「ん?」

「なんか、いつもビニール傘のような気がするんですけど」


 何気ない、だから何っていうわけじゃないんだろう、小野寺の指摘。

 俺はそれに、一瞬苦笑してしまった。


「あー‥‥‥‥‥まあ、そうだな」

「朝から雨なのにビニール傘ってことは、普通の傘持ってないとか? ポリシーなんですか?」

「どんなポリシーだよ。普通の傘持ってないのはホントだけど」

「へえ‥‥‥‥珍しいですね」

「‥‥‥‥‥‥まあな」


 安っぽい、透明のビニール越し。

 ぱたぱた弾ける水滴の向こう、機嫌の悪そうな空が見える。

 あの日もこんな天気だった。





 知らず育ったあいつへの想いに気付き始めた、あの日。






 記憶なんてものは不確かで、時間が経つ程に歪みながら薄れていってしまう。

 それでも忘れたくないことっていうのは、やっぱりあって。

 俺の場合、それは高校時代、律との淡くて短すぎた時間。

 二人で撮った写真があるわけでもなく、一緒に過ごしたのはほぼ学校の図書館か俺の家っていう‥‥‥‥

 まあ今思えば本当何やってたんだって感じだけど。



 そんな中での、唯一の物のやりとり。








 律がわざわざ俺に届けてくれた、ビニール傘。








 あれはちょうどあいつが姿を見せなくなった頃に風に煽られて壊れてしまって、

 でもどうしても手放せず取っておいたのだけど、

 四国へ引っ越す時のどさくさで捨てられてしまっていた。


 それからずっと、俺はビニール傘しか使ってない。

 あいつのことを思い出すから。




 ゆっくりと海馬の奈落へ沈んでいくあの時のことが、この傘ひとつでほんの少し鮮明に、思い出せる気がするから。




 俺が変な顔をしてたんだろう、25になった律が首を傾げていることに気付いてまた苦笑い。






 ‥‥‥‥‥ああ、そうだ。






「じゃあさ、お前が俺に傘買ってよ。ビニール傘じゃないやつ」

「へ?」

「そしたら俺、今度からそれ使うから」

「なっなんで俺が!!」

「いーじゃん、傘くらいそんな高いもんじゃないだろ」

「そ、れはそうですけど‥‥‥‥」


 困惑したように視線を泳がせる小野寺。

 もう少し幼い顔で同じ表情を見たことある気がするんだけど、なんの時だったか?









 そんな数週間前のことをふと思い出したのは、今日も朝から雨が降ってるだからだろう。

 昨日の天気予報では昼以降って言ってたけど、どうせ降るならいつからでも大して変わらない。

 ‥‥‥‥‥‥いや、変わるな。出勤が面倒くさい。

 でもこの間は車検に出していた車が戻ってきてるから、そっちにしよう。

 早々と結論を出した俺は、支度を済ませ玄関へ向かう。

 マンションも会社も駐車場は屋内だから傘は必要ない。

 でもなんとなく、目が行ってしまう。





 どこで買っても同じような、なんの変哲もない、透明のビニール傘。





 十年経っても必死に握りしめているセピア色の記憶を、いつか手放して思い出にしてやることはできるんだろうか。

 白い取っ手に軽く触れて、でも持つことはなく玄関を出た。












 ドア横の壁。




















 立てかけてあったのは見知らぬ、深いマリンブルーの傘。




















 小野寺が、俺の一方的な頼みを聞いてくれたのだと。

 そう理解するのに少し時間が掛かった。



 なあ、きっとお前は気付いてないんだろうな。

 俺がどうしてビニール傘にこだわるのか、どうしてお前からもらう傘に固執するのか。



 いかにも新品ですというようにかぶせてあった袋を取る。

 ああ、これからはマリンブルーの傘しか使えなくなるのかな、なんて考えてみる。

 宝石みたいに綺麗で割と珍しい色だから、同じのを探すのは大変そうだな。

 まあその時は、またあいつにねだればいいか。

 あいつがくれるのなら、色なんか構いやしないんだから。



 俺は袋と車のキーを家の中に残して、その傘を手にエレベーターへ向かう。

 雨の日の電車出勤は憂鬱なもの。

 でも、まるで高校生みたいに、気分が高揚していた。

 見せびらかしたいんだ。

 大切な人に贈られた、真新しいこの傘を。

 27にもなってこんなガキっぽいこと思うなんて、自分でも驚きだけど。

 勢いよく開けば、少し大きめのそれに頬がゆるんでしまう。



 うまくすれば、駅であいつにばったり会えるかもしれない。

 このマリンブルーを見て、あいつはどんな顔をするだろうか。

 きっとからかってやりたくなるんだろうな、俺。


 だけどそれは後でいい。












 真っ先に君に伝えたいのは、












 あの日言いそびれた「ありがとう」