1.前と




 俺は今、ちょっと困っていた。







「どこ行くんだよ」







 いつものようにそそくさと部屋を出ようとした瞬間、捕まってしまったから。





















 この若い人間は、人間が嫌いだってよく独りごちる。
 その度に「お前だって人間だろ」って内心つっこむ、けど。
 俺が人間じゃないから、外見が猫だからって気を許してるのに、
 不可抗力とはいえ人間に化けられるって知れたら追い出されるんじゃないか‥‥‥‥‥と思ったら、俺はちょっと動揺してしまった。
 だからこの家に来た日から、なるべく気付かれないように、あるいはなんでもないふうを装ってこの部屋を出、
 どこかしらの窓から逃走を図っていたわけだ。

 なのに今日は逃がしてくれないらしい。
 いや、俺が夜になるといなくなることに確信を持ったか。







「お前どこ行くの、毎夜毎夜」







 やっぱりばれた。
 声を上げて腕から抜け出そうとじたばたしてみるけど、まあ無意味で。
 見せつけるように窓に鍵を掛けられてから、ベッドへと下ろされる。



「ここで大人しくしてろよ。俺は風呂入ってくる」
「にゃぁん」
「言っとくけど、部屋の外に椅子とか置いて開けられないようにしとくからな」



 そこまでして閉じ込めたいか。
 しかし抗議しようにも猫じゃ人間の言葉なんか喋れないし、引っ掻いたり噛みついたりして意思が伝わるとも思えない。
 何より、そんなことしたところで出してくれそうな雰囲気じゃなかった。
 仕方なくその場で丸くなると、若い人間は俺の頭を一撫でして、服を持って出ていった。
 ドアの向こうから何やら音がするのは、本当に椅子か何かを置いているからだろう。
 やがてとんとんと階段を下りていくのが聞こえ、気配が消えた。















「‥‥‥‥‥‥‥‥‥にゃん」















 さて、どうするか。
 無意識に顔を洗いながら俺は考える。
 本当なら追い出されたって構いやしないんだ。
 他の場所を探せばいいだけなんだから。
 なのに本来の目的を曲げてまで、人間になる前にこの家を出てしまうのは、やっぱり。





 人間が嫌いだというあの人間の傍にいたいから、なんだろう。





 でも今日はここを出られない。
 とりあえずドアを開けようとノブに飛びつくけど、向こう側にある重いものに邪魔されてびくともしない。


 困ったな、と思ってるうちに‥‥‥‥‥‥‥タイムアウト。



















 がちゃり。





























「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥あ」





























 まあ人間になっちゃったらなっちゃったで、服を借りて堂々と出て行くこともできるわけだし、そうしようと思ったんだけど。
 件の若い人間が戻ってくる方が早かった。
 濡れた髪をタオルで乾かしてた手を止めて、俺を凝視する。

 まあ、そうなるよな。











「‥‥‥‥‥え、何。誰」
「‥‥‥‥‥‥‥“そらた”、でしょ」
「は?」











 つけられた名前を言うと、軽く目を瞠られる。
 この人間のこの表情は初めて見るな。
 困惑気味にきょろきょろして猫を捜す彼に、俺はため息を漏らす。



「だから嫌だったのに‥‥‥‥」
「え、」
「人間嫌いだって言ったのそっちじゃんか」
「‥‥‥‥‥あんた人間なのか?」
「違う。化け猫みたいなもんじゃないかな。ちょっと長生きしすぎて、人間に化けられるようになっちゃっただけで、人間じゃない」



 でも今の俺は、人間の言葉を話せる。
 姿形も人間。















「俺が猫だから、お前は俺を拾ってここに置いてたんだろ、人間」















 嫌だな。
 結構居心地良かったのに。
 毎夜外へ出なきゃいけないのは面倒だけど、それ以外は悪くなかった。
 この人間も嫌いじゃない。
 初めてまともに関わった人間だからかもしれないけど。



「‥‥‥‥‥俺、人間って名前じゃないんだけど」
「だって知らないし。名乗らなかったでしょ」
「猫にいちいち名乗らねーよ‥‥‥‥」
「なら俺が知らないの当たり前じゃない?」
「‥‥‥‥嵯峨政宗」
「‥‥‥‥さがまさむね」
「言っとくけど嵯峨が名字で、政宗が名前だから」
「‥‥‥‥‥‥‥‥じゃあ、さが?」
「それでもいーけどさ、多分近いうち名字変わるから。そうなったら高野政宗になるけど」
「まさむね、は変わらないんだ。じゃあ、」























 まさむね。























「まさむね、」
「とりあえず服貸すわ」
「‥‥‥‥‥‥追い出さないの?」











 俺は今、お前が嫌いな「人間」なのに。











「追い出さねーよ」
「‥‥‥‥‥そっか」
「ほら。着ろ」



 裸のままだった俺にぽいっと投げられたのは、寝間着らしき服。
 着てみたら大きさはちょうどよかった。

 まさむねは俺の前にあぐらをかいて、じっと目を合わせてくる。
 観察されてるみたいだったから、俺も観察した。
 黒い瞳。
 少し濡れた黒髪。











「‥‥‥‥‥名前」
「ん?」
「名前は?」
「“そらた”じゃないの?」
「それは俺がつけただけだから。元々の名前があるなら、知りたい」











 随分と真剣に言われたから、俺は名乗った。
 人間に伝えるのは初めてだなんて思いながら。
 そしたら、まさむねは。

























「‥‥‥‥‥りつ」






















 確かめるように声を出して。





























 不意に、ふわりと、笑みを浮かべた。





























「あ」







 この表情も、今日初めて見た。
 これ、嫌いじゃないな。



















 もっと、見たいな。



















「まさむね」
「うん」
「まさむね」
「なに」
「まさむね」
「なんだよ」
「まさむね、」
「なんだよって」















 あ、また。

 咲った。















「ねえ、まさむね」











 もっと、見せて?