10.夜と
俺は風呂が嫌いだ。猫だから。
夜、人間に化けても、やっぱり水気は好きじゃない。
でも政宗は、必死になって抵抗する俺を風呂に入れるのが大好きらしい。ドSだ。鬼畜だ。高校生の頃はあんなに可愛かったのに。
いやでも風呂には入れられてたけど。
猫の方が小さいから政宗にしては入れやすいだろうけど、魔の手を避けるのは容易い。
一方、人間だとちょこまかとは動けないから、逃げを打ってもすぐ捕まる。
その代わり暴れれば押さえるのは大変なはず‥‥‥‥‥‥なのに、
いつの間にか俺より大きくなった政宗は俺の抵抗を全く意に介さない。
ここ数年は人間に化けてから風呂に連行される。
水が嫌でじたばたしても、なんとか慣れて大人しく湯船に浸かっても、政宗はいかにも楽しそうににやにやしている。
性格悪すぎるだろ。俺はこんな人間に育てた覚えはない。
だから仕返しに頭をぐちゃぐちゃに洗ってやるけど、やっぱり政宗はにやにやしている。
一体どこでこんなにねじ曲がってしまったんだか。
やっとの思いで今日も苦行を終え、ソファにぐったりと腰を下ろす。
洗面所でドライヤーの音がする。
俺はあれが特に嫌いだ。風呂より嫌い。あの耳に障る音も嫌だし、嘘くさいぬるい風も鳥肌が立つほど気持ち悪い。
最初の風呂の時、あれを使われそうになった猫の俺は見境なく引っ掻いたり噛みついたり大暴れして、
さすがの政宗もそれ以降は無理強いしなくなった。
政宗にもやめさせようとは思わないけど、やっぱり歯がぎりぎりする。
あんまり意味はないって知りつつも、とりあえず耳を塞いだ。
音の薄れた世界。
ふと、居酒屋から駅に向かう途中で会った井坂のことを思い出した。
「律?」
不意に腕を掴まれる。
消えた雑音とはまた違う音が聞こえる。
まず鼓膜を揺さぶるのは、政宗の声。
顔を上げると、すっかり髪の乾いた政宗が立っていた。
「どうした? ドライヤーならもう終わったぞ」
「‥‥‥‥‥‥ん」
「疲れたのか? ‥‥‥‥‥‥まあ、ここからあの居酒屋まで歩いたなら、そりゃ疲れるよな」
隣に腰を下ろし、まだ生乾きの俺の髪を撫でられる。
あの時、井坂は丸川書店の専務取締役だって政宗に説明を受けた。
あいつを見た瞬間の政宗はちょっと微妙な表情だった。確かに食えないヤツだし、気持ちはわからないでもない。
一応上司らしいから、ちゃんと挨拶してたけど。
井坂は俺が知る中で唯一の“仲間”だ。しかも俺なんかよりずっとずっと長く生きてる。
そして、俺より前に人間に化けるようになり、人里へ降りていった。
百年くらいぶりに再会した何も変わらないあいつは、俺に哀れみの目を向けた。
人間と近い距離にいすぎることを察したらしい。
俺も気付いてはいた。
今までなかった、自分の体の変化。
「‥‥‥‥‥‥‥‥政宗」
「ん」
「もし俺が、年取り始めたら、どうする?」
「は?」
ゆっくりと俺の頭の形をなぞっていた手が、止まる。
黒い瞳が俺を覗き込んできた。
「何言ってんだ、お前化け猫だろ? 現に十年そのまんまじゃねーか」
「俺はずっと政宗のすぐ近くにいた。俺が化け猫だってばれてるし、距離が近すぎるのは自分でもわかってた。
この十年、表だっては変わってないけど‥‥‥‥‥‥だんだん、俺の体のリズムが、人間と同じ時間の流れに近づいてきてる」
これを成長と呼ぶのか、老いと呼ぶのかはわからない。
でもずっと止まったままだった俺の身体の時計は、徐々に針を進め始めている。
猫の時、今まで入れていた本棚の隙間に収まりきれなくなったし。
いつも履いていた靴も、なんだかきつくなってきた。
毎日俺を見ている政宗はすぐにはわからないだろうけど、確かに、俺は変わりつつある。
「俺の体の時間がどういうペースになるかはわからない。人間と同じか‥‥‥‥‥
もしかしたらそれより早いかもしれないし、遅いかもしれない」
「‥‥‥‥‥‥」
「政宗は、それでもいい?」
俺が年を取っても、いい?
俺の真剣な問いに、黙っていた政宗は「あのさぁ」と声を上げた。
ひどくなおざりに。
「それってわざわざ聞かなきゃいけないようなこと? それなら俺はどーなんの?
見ての通り、この十年でそれ相応に年取ってきてんだけど」
「でも俺は、本来ならそうはならないはずで」
「俺はさ、正直寂しかったよ。俺からすればお前は俺の人生のほとんど全部だけど、
お前にとって、俺は長い長い時間のほんの一部分に過ぎない。それがすごく悲しいって思ってた。
でももしお前がこれから年を取るなら、俺と同じように時間を積み重ねていくのなら、俺はお前の通過点じゃなくなる。
願ったり叶ったりだ」
俺は政宗を通過点だなんて思ったことはない。
電車から見る景色のようにどんどん流れていく時代の中、俺はずっと、ただ本能のまま自分の生を護っていた。
でも人間に化けるようになって、政宗に出逢ってからは、たった一日が今までの十年に匹敵しそうなくらい多彩だ。
たくさんの出来事があって、たくさんのことを感じて。
もしも政宗と一緒に、政宗と同じように、人生の終わりへ向かう一瞬一瞬を生きていけるのなら。
それこそ、願ったり叶ったり。
「政宗、」
「ん」
両手を伸ばすと、心得顔でその射程距離に入った政宗が俺の腰をぐっと抱き寄せる。
顔が近づく気配に目を閉じたけど、やわらかい感触がした場所は額で。
つい非難がましい視線を送っていたらしく、政宗が至近距離でくっと笑った。
わかっててやってる。
やっぱり性格悪い。
「怒んなよ、律。部屋でいくらでもしてやるって」
俺はそのうち、化けなくなるかもしれない。
猫にならず、一日中人間として、一生人間として、その時間の中で生きるようになるのかもしれない。
でも、悲しみや困惑はない。
俺は俺だ。
ここを選んだのは他でもない俺。
そして政宗は、俺を捨てたりしない。
きっとその生を全うするまで、傍にいてくれる。
俺を抱き上げようとする政宗の首に腕を絡めて、引き寄せて。
少し幼いキスをした。