番外編.このしあわせ




 その日は、エメラルド編集部の雰囲気がいつもと違っていた。
 周期明けだからもちろん皆本来のキラキラが戻っているわけなのだが、この異様なまでの和みようには理由があった。
 それは一時間ほど前に現れた、珍客。



















「にゃぁん」



















 構ってほしいのか眠いのかはたまた気まぐれか、甘えたような鳴き声を上げる小さな猫に、
 必死に己を律し仕事をしていた部員たちは途端に再び骨抜きになった。



「ちょっ‥‥‥‥‥んもーー可愛すぎるでしょーーそれーー!!!」
「うーんちょっと反則だよねぇ」
「周期真っ只中だったら仕事がはかどるどころか滞ってしょうがなかっただろうな」



 本当は三人とも、鳴き声の元を撫で回したいのだ。しかし悶えるばかりで誰一人椅子から立ちはしない。
 問題はただひとつ。

 その猫がいる場所。



「高野さんから律くんを取る勇気は俺にはないな‥‥‥‥」
「あの膝の上のを撫でるのも憚られるしな」
「あれポーカーフェイス必死で保ってるけど内心気持ち悪いくらいでれでれだろうねー」
「くっそいいなーふわふわなんだろうなー」
「奪ってこい木佐」
「そうそう。僕たちのためにも犠牲になってよ」
「嫌だ俺まだ死にたくない」



 つい先日周期(臭気)が終わり、エメラルド編集部は真っピンクに戻っている。
 屍に代わり可愛らしいぬいぐるみたちが机を占拠する中、それを眺めていた編集長が「俺も明日可愛いもん持ってくっかな」と呟いた。
 それを聞き逃さなかった部員達が、「どうぞどうぞ!」と全力で許可を与えてしまい。
 そして今日、こんなことになっている。



「確信犯だよねー‥‥‥‥」
「木佐は『むしろお願いします』とか言ってたよな」
「うう、だって高野さんチョイスの『可愛いもの』ってどんなのか気になって‥‥‥‥!!」
「ちょっと考えれば何か企んでるってことくらいはわかったのにね‥‥‥‥」
「周期明けで疲れてたからな‥‥‥‥」



 はあ、とため息を重ねながら、それでも視線は三つとも未練がましく猫に向かう。
 それに気付いていないはずがないのに、編集長はともかくその膝に載る掌サイズの猫も動こうとする気配がない。
 眼鏡を掛けている彼を尻尾をひらひらさせながら見上げたり、一応仕事をしている手許を覗き込んだり、
 そして時折構えと言わんばかりに鳴き声を上げる。やはりその手の中が一番いいらしい。
 悶えたり凹んだりを五分ごとに繰り返して、エメ編部員たちは昼頃にはすっかり憔悴していた。











 そして、夕方。
 不意に猫が動いた。
 半日以上経っても相変わらず編集長の傍にいて今はぬいぐるみと戯れていたのだが、
 何かに気付いたように編集長に向かって「にゃあ」と鳴くと、軽やかに棚から降りて止める間もなくエメ編を出て行ってしまった。
 無理だとわかりつつも撫で回す機会を虎視眈々と狙っていた三人は焦りまくる。



「えっ‥‥‥‥ちょ、なんで!? どうしたの!?」
「‥‥‥‥‥‥‥まさか帰
「いやあぁぁああそんなぁあああ!!!」
「うるせーお前ら」
「ちょっちょっと高野さん、あの子なんで行っちゃったの!? どこ行っちゃったの!? もう戻ってきてくれないの!!?」



 あまりの騒々しさに顔をしかめつつ自分も編集部から出て行こうとする編集長に、取り残されそうな全員で追い縋る。
 編集長は部下達のあまりの必死さに怪訝そうだ。



「戻ってくるに決まってんだろ。八時半にホテルのレストランに予約入れてんだから」
「‥‥‥‥はあそうですか」
「フられればいいのに」
「何か言ったか美濃」
「ってそうじゃなーーーい!!! え、戻ってくるんですよね!? ほんとに!!?」
「だから、律は俺と一緒にメシ行くんだから、まだ帰ったりしないっつの。俺もちょっと抜けるけどすぐ戻るから」



 言葉通り、車の鍵を持ってどこかへ出かけた編集長は十分ほどで戻ってきたが、猫はあれっきり一向に現れる気配がない。
 誰もがじりじりしながらその時を待ちわびていた。



 そして。























「失礼しまーす」























 エメ編に天使が現れた。(部員・談)











「あ」
「りっ‥‥‥‥律っちゃあぁあああん!!!」
「あ、どうもお邪魔してますー」











 ぺこりと頭を下げたその手はトレーを持っている。
 よくよく見れば、湯気の立つカップが四つ。



「ちなみにそれは‥‥‥‥」
「えっと、コーヒーです。皆さんお疲れみたいだったので、飲まれるかなーと思って‥‥‥‥‥」
「おいおい大丈夫かよ。落とすなよ律」



 いち早く反応したのは素知らぬふりを装っていた編集長で、気がつけば彼からトレーを奪っていた。
 それを見た部員は危機感を募らせる。



「‥‥‥‥‥‥えーと、高野さん」
「まさかそれすら俺たちの手には渡らないなんてこと‥‥‥‥」
「は? いくら俺でも一気にこれ全部は飲めねーよ。ほら」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ああ、そういうことですか」



 つまり、愛妻の手が別の野郎共にカップを渡すのは許さないと。なんとも心が狭い。
 とはいえ会社では缶コーヒーばかりに頼っている彼らにとって、
 ほんの少しでもこちらのことを考えて作ってくれたコーヒーというのは涙が出そうなほど嬉しいものだ。
 あたたかいそれにありがたく口を付けると、自分のカップを机に置いた編集長が何かを彼に差し出した。



「律、これコピー。五部な」
「あ、うん。やり方は前練習したやつと同じ?」
「ああ」
「えっなになに、もしかして律っちゃん手伝ってくれるの!?」



 まさか、と思いつつも前のめりになると、編集長はこともなげに「ああ」と言う。



「まだしばらくはないだろうけど、いずれそうなるかもしんねーから。
 こいつそういうのしたことねーし、しばらくはバイトで雑用とかかもな」
「おおー編集長推薦で愛妻を同じ会社に引き入れちゃうんですか!!」
「推薦はしない」
「え、じゃあ律くんが実力で試験受けて入るってことですか? 既成事実でもなく?」
「それだと必ず入れるとは限りませんよ」
「その時はその時だ。俺は律をコネとかで入社させる気はない。そんなんで傍に置いても意味ないからな。自力でここまで来させる」
「ひゅーかっこいいー!! さすが我らが編集長!!」
「‥‥‥‥‥‥‥‥えっと」
「律、終わったか。こっち来い」



 コピーから戻るなり異様に盛り上がっている編集部に困惑する彼を、編集長は手招きして呼ぶ。



「使えたか?」
「うん、多分‥‥‥‥大丈夫だよね?」
「ああ。ま、とりあえず座れ」



 編集長がぽんぽん、と叩いたのは。



「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥うん。いやあの、ちょっとそれは」
「なんだよ、今の今まで座ってたじゃねーか」
「家じゃないし、ていうか人間の状態でそれはないと思う。周り的にも」
「なことねーよ。あいつらは気にしねー」
「(Σやらせねーーーよ!!!?)あっ律ちゃん、こっち! こっちおいで!!!」
「そうだな、木佐の隣は空いてるしな」
「ぬいぐるみ寄せるからどうぞー」
「あっすみません、ありがとうございます」



 盛大に顔をしかめる編集長をよそに、彼は大歓迎する三人が用意してくれた席に腰を下ろした。
 さすがに撫で回すことは不可能だったが、エメ編はいつになく明るい空気に包まれて。

















 そこが一年後、正式な彼の席になることを、今はまだ誰も知らない。