3.怖と




 この家は静かだ。
 いつもまさむねと俺しかいないから、まさむねが学校へ行ってしまうと、俺が一人で留守番。







「‥‥‥‥‥にゃあ」







 猫サイズの俺には、いやもしかしたらまさむねにとっても大きすぎる家に、俺の声だけが異様に響く。
 広い。
 でも、息苦しい。
 まさむねがいないと、この家では呼吸すらしづらくて。

 だからまさむねが帰ってくると、俺は嬉しくて玄関先まで出迎えに行ってしまう。







 がちゃ







 その時、気付くべきだった。

 ドアの開く音が、いつもより一時間以上早かったことに。





























「え‥‥‥‥‥‥? 何、この猫」





























 奇遇にも、俺も同じようなことを考えてた。
 なんだ、この人間。
 初めて見る。
 というかここ、まさむね以外にも人間がいたのか?

 困惑していると、人間は不意に、玄関の隅に置いてあった箒を手に取った。



 そして、



















 俺、猫でよかったかもしれない。
 人間だったら避けられなかったと思う。
 反射的に飛び退いた、一瞬前まで俺が居たところに、箒の先を突き出されていた。
 俺はあまりのことに硬直する。


 やばい。
 この人間は、やばい。















 まさむねとは違う。















「一体どこから入ってきたのかしら、不潔な猫‥‥‥‥!!」







 手に箒を持ったまま、靴を脱いで上がってこようとする。
 底知れぬ恐怖を覚えた俺は、急いでその場を離れた。
 まさむねの部屋の窓が開いてるのは確かだったから、全力で二階へ駆け上がりそこへ入って、迷う暇もなく外へジャンプする。
 隣の家の塀から、自分が今飛び出した窓を見上げる。
 あそこなら安全かもしれないと思った。
 でも、そこからさっきの人間が顔を出したのを見て愕然とした。



 だめだ。
 戻れない。



 きょろきょろしていたその人間と目が合って、俺は弾かれたように逃げ出した。



 まさむね。

 もうすぐ、帰ってくるのに。




















 日が落ちて大分経つ。
 俺はそろそろと、塀の上に戻ってきていた。
 まさむねの部屋に、もしかしてあの人間がいるかもしれないと思ったら、なんでもないはずの距離が酷く遠く感じる。
 電気は点いてる。
 そして、窓が開きっぱなしだった。
 絶対寒いはずなのに、なんで?
 戻ろうと思えば簡単に戻れるけど、さっきのことが怖くてどうしても動けなくて、俺はその場に座り込んで俯いた。





























「‥‥‥‥‥‥‥‥りつ?」





























 突然、声が降ってきた。
 はっとして顔を上げると、そこには。



 さっきまで誰もいなかった窓から、他でもないまさむねが、顔を出していた。



 逆光だから表情は窺えない。
 でも、確かに俺を見てる。











「りつ」























 俺を、呼んでる。























 何か考える前に、俺の体は飛び上がっていた。

 まさむねは俺をやさしく抱き留めて、顎をくすぐってくれた。
 それだけで凍り付いていた心が癒されるのは、なんでだろう。



「風呂入るか、りつ」



 久しぶりに何時間も外にいた俺は、確かに少し埃っぽくなってる。
 それでも普段なら断固拒否するけど、今日はそんなに嫌じゃなかった。
 ただ、まさむねの腕の中が、ひどく心地よくて。


















 体を洗われて部屋に戻るなり、俺は人間になった。
 結構間一髪だったかもしれない。
 まさむねの服を着ながらつい溜息をつくと、猫の時するみたいに髪を撫でられた。









「今日、どこ行ってたんだ?」









 学校から帰ってきたまさむねを出迎えなかったのは、今日が初めて。
 心配させたんだな、っていうのはひしひし伝わってくるけど、どうやら怒ってはないみたいだ。
 すごく安心した。
 でも同時に、さっき感じた恐怖がぶり返してくる。
 指先が震えそうになって、ぎゅっと拳を作る。



















「‥‥‥‥‥‥もしかして、俺の母親に会った?」
「っ、?」
「あの人、動物嫌いだから‥‥‥‥‥‥何かされたか?」



















 怪我はなかったみたいだけど、と言われて、ようやく気付いた。
 お風呂でやけに丁寧に体を洗われるから、嫌がらせかと思ってた。
 でも、違うんだ。
 触っても痛がらないか、気にしてくれてたんだ。



 まさむねが、俺の頭に触れてた手を移動させて、背中を抱き寄せられる。
 人間の状態でこういうふうにされるのは初めてだ。
 すっかり馴染んだ体温、におい。
 あれがまさむねの母親だったと知って、言わない方がいいかと思っていたことが、自然に溢れ出てくる。





「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥玄関が、開いてね」
「うん」
「まさむねかと思ってお出迎え行ったら、まさむねじゃなくて」
「うん」
「箒で追い払われた。びっくりして、俺、それで」
「そうか‥‥‥‥」





 ゆるゆると、大きな手が背中を上下する。
 それがあんまりにやさしくて、俺は泣きそうになった。











「すごい、こわかった、」
「‥‥‥‥‥」
「俺、初めて、人間がこわいと思った」











 長い長い間、俺は人間と接してこなかった。
 俺が大好きな山に引きこもって、結果的に関わりがなかったっていうだけなんだけど。
 まさむねは例外として、他は好きとも嫌いとも、思ったことなんかなかったのに。











 こわかったんだ。
 どうしようもなく。











「‥‥‥‥‥人間が、嫌いになったか?」











 静かに問われて、肯定するまでいかなくても、否定が浮かばないくらいには。


 でも、





























「俺も、嫌いか?」


「っそんなこと、ない!!」





























 それだけは、違うんだ。















「人間、は、本当にこわいって思った‥‥‥‥‥‥けど、まさむねは、違う」
「‥‥‥‥‥」
「まさむねだけは、違う」















 違う。違うよ。
 なんでかわからないけど、ここはすごく居心地がいいんだ。
 だから、ずっといさせてよ。



 俺はどう伝えればいいかわからなくて、ぎゅうっとまさむねにしがみつく。
 そしたら、俺の肩に顔を埋めたまさむねが、「そっか」と呟いた。





























「よかった」





























 そのまま、まさむねはしばらく俺を離さなかった。
 俺も、離してもらう気はなかったんだけど。















「まさむね」
「ん」
「今日は、月が綺麗だよ」