4.邪と




「ただいま、」



 律、と。
 いつもの調子で言おうとしたが。
 玄関先に子猫の姿はなくて、俺はドアを開けた状態のまま何度か瞬きする。

 それでもやっぱり律はいない。

 学校帰りの俺を律が出迎えてくれないことは、本当に数えられるくらいしかない。
 その主な原因は母親だったけど、靴もないし、今日はいないらしい。
 だったらなんで。
 俺は気が急くのを感じながら二階へ上がる。







「律?」







 まるで間違い探しだ。
 あいつは小さいから、隠れられるとマジで見つけづらい。
 俺はぐるりと部屋の中を見渡して。


 ああ、いた。
 布団からほんの少しはみ出した耳。







「律」







 鞄を床に置き、ベッドに腰を下ろす。
 姿を確認してもう一度呼んでも返事がない。
 それどころか、いつものように頭を撫でようとすると、するりと布団の中に引っ込んでしまった。



「おいおい、窒息すんぞ」



 慌てて出そうとしたら、今度は指を噛まれて拒否された。
 軽く歯を立てられた程度だけど、理由もわからずこんな態度を取られて、俺は内心戸惑った。
 どうすればいいのかと思ってると、くぐもった鳴き声。

 出てこないならこっちが入るしかない。
 俺は布団の中に潜り込んだ。
 薄暗くて空気が生ぬるくて息苦しい。
 そんな中で縮こまっている律は、俺を見るとまた鳴いた。

 なんか、声が変な気がする。



「どうした、律」



 手を伸ばすと、よろつきながらも頭を避ける。
 でも背中は触ってもいいらしい。
 俺にとっては抱き枕にもならない小さな毛玉は、俺の胸にすり寄るようにして丸くなった。

 ああ、失敗した。
 先に着替えればよかった。
 もうすぐこの学ランも着なくなるわけだし、皺が寄ったって別に構いやしないけど、横になるには邪魔すぎる。
 肩の辺り、すげー違和感。
 結局俺はまた起き上がり、さっさと服を着替えた。
 布団の些細なふくらみは、ただの偶然の産物に見えなくもないけど、時々もぞもぞ動いて鳴き声を上げる。
 やべー、なんか面白い。
 でもやっぱり声が掠れてて、あまりに頼りなさげだから、俺はすぐベッドに戻った。
 今回は布団に埋まるのは肩までで、律の顔も出してやる。

 律はなんとなくぐったりしてる様子。
 だけど猫だし、どんな具合か聞くことも表情で覗い知ることもできない。
 動物病院とか連れてった方がいいんだろうか。こいつが本物の猫じゃないってばれるか?
 そんなことを考えつつ、動くのを嫌がる律になんとか水を飲ませたり、また布団に潜ろうとするのを阻止したりしてたら、
 夕食時を逃してしまっていた。

 それに気付いたのは、律が人間になったからで。

 同じ生き物になってやっと、そいつの変調ぶりがわかった。















「‥‥‥‥‥‥律?」
「んー‥‥‥‥」















 顔が赤い。
 呼吸が浅い。
 額や首に手をやると、かなりの熱を出していることがわかった。

 どうやら風邪らしい。

 一体どこからウイルスもらってきたんだ?
 まあでも俺がいない間、ずっと家に閉じこもってるわけじゃないかと思い直す。
 ていうかこいつ、人間でもないし‥‥‥‥‥人間用の風邪薬とか呑ませて大丈夫なもんだろうか。

 不安が拭えなくて、とにかく水分を取らせ、冷却シートを貼ってやることにした。
 いきなりは冷たいだろうから、水にさらした手を朱に染まった額に当てる。
 そしたら、寝てるのか起きてるのかはっきりしなかった律が、ふっと目を開けた。







「うぅ‥‥‥‥‥まさ、むね?」
「大丈夫か」
「んー‥‥‥‥頭、ぐわんぐわんして、ずきずきして、重たい‥‥‥‥‥」
「やっぱ風邪だな」
「か、ぜ?」
「ああ。熱もあるし」
「‥‥‥‥‥政宗の手、冷た‥‥‥‥‥気持ちぃ‥‥‥‥」
「そか。もっと冷たいの貼るからな」







 律の熱がどんどん移ってきたから、そろそろいいだろうと少し汗ばんだ前髪を掻き上げ、冷却シートをそっと貼り付けてやる。
 やっぱり冷たかったのか一瞬体が強張ったけど、平気そうだ。
 いや、だるさのが強いだけか。



「う〜〜‥‥‥‥‥」
「ほら、水飲め」
「んん、‥‥‥‥‥‥まさむね、」
「どした?」
「でんき、明るい‥‥‥‥」
「あー、悪い」



 ベッドを離れ、カーテンを開けてから電気を消してやる。
 街灯や月の光がぼんやり入って来るけど、すぐには目が利かない。
 感覚を頼りに数歩足を進めると、腕をひどく熱い手に掴まれ、引っ張られた。
 そのままベッドに舞い戻る。



「お前、よく見えるな」
「‥‥‥‥‥だって、猫だし‥‥‥‥」



 そういやそうだな。
 納得しながら、布団をしっかりと律の肩に掛けてやる。
 頭が痛いらしいから腕枕はやめて、その代わり、手を握った。
 ほっとしたように律が息を吐き、ゆるく目を閉じた。











「ゆっくり寝ろ? 寝れば治るから」
「ん‥‥‥‥」
「おやすみ、律」











 鼻の頭にキスをする。
 目をつむっていても何をされたかわかったらしい律はふにゃっと破顔して、
 満足そうにむにゃむにゃと何か呟いて、そのまま眠りに落ちていく。
 割と穏やかな表情で寝息を立てるから安心した。

 そのまま、少し高い体温につられるように、俺もいつもより三時間近く早く寝てしまって。
 翌朝空腹もあって、律がまだ猫に戻ってないような時間に起きてしまったのは別の話。