5.去と




「りつ」
「んー?」



 りつは普段猫で、人間になるのは夜だけ。
 時間に多少の誤差はあるけど、大体九時とか十時に化ける。
 どのくらいで戻るのかは知らない。
 俺が朝六時半に起きると、もう猫だから。







「お前さ、なんでわざわざ人間になるの。毎日」







 それは俺からすれば当然の疑問だ。
 なのに俺の古典のノートを興味津々で覗いていたりつは、呆れ顔を俺に向けてきた。





「誰が好きこのんで化けるか」
「は?」
「多分長生きのしすぎで、勝手に化けるようになっちゃったの。
 毎日なのも夜の間だけなのも、狼とか鷲じゃなくて人間になるのも、俺の意思じゃない」
「へえ‥‥‥‥」
「よりによって人間じゃなかったら、山降りたりしなかったのに‥‥‥‥」





 ぶつぶつと不満げに文句を垂れるりつ。
 そういえば、なんで何百年居ても飽きなかったお気に入りの山から下りてきたんだ?
 ついでに聞いてみると、眉間に皺を寄せて唇を尖らせる。
 そういう表情は子供っぽいよな。



「‥‥‥‥‥だから。人間だったから」
「え」
「熊とかリスとか鷹とか、そういうのだったら、山でも生活できるけど。
 人間は自前の毛皮もないし爪も牙もないし、山なんかじゃ生きてけないの。だから仕方なく降りたわけ」



 つまり、人間の状態でも生きていける環境を求めて人里に来たってわけか。
 そして雨の中、とりあえず目が合った俺に大人しく拾われたと。

 でも俺の「人間なんか嫌いだ」っていう独り言のせいで、こいつはしばらく、化ける前に家を出てた。
 猫の間に駅前のホテルで窓の開いてる空室を探して、そこで夜を過ごしてたらしい。
 話からして中流のビジネスホテルだし、寒くも居心地悪くもなかっただろうけど。















「俺、やっぱここの方がいいや」















 そう咲うりつ。
 何言ってんだよと返そうとした俺は、

 続いた言葉に凍り付いた。





























「ここなら、まさむねがいて寂しくないから」





























「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥何、言ってんだよ、」











 やっと絞り出せたのは、さっき言おうとしていたこと。
 でも違う。

 声が、震える。











「だって山は大好きだったけど、やっぱりみんな野性だから、仲良くなるとかなくて。
 ご飯かライバルか天敵かって感じで‥‥‥‥‥まあ俺が普通の生き物じゃないから線引かれてたのもあるけど」
「‥‥‥‥‥‥」
「化け猫仲間、みたいなのもいなかったし。自分以外のものと交流なんかないに等しくて。ずっとそれが当たり前だったけど、」











 りつは、まるで。

 なんでもないことのように。





























「まさむねに会って、すごく満たされて、俺ずっと寂しかったんだなって気付いた」





























 なんで、そんな簡単に、















「まさむねは?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥あ?」

「まさむねも、寂しかった?」















 からかう様子でもなく、ただ純粋な疑問を浮かべてりつは問う。


 答えられるわけがない。















「‥‥‥‥‥‥‥‥りつ」
「うん」
「人間、は、寂しいとか、そういうの言わねーんだよ」
「俺人間じゃないし」
「俺は人間だ」
「知ってる。ねえ、寂しかった?」















 俺は人間じゃないから言っても許される、なんて。
 どんな理屈だ。
 震えそうになる指先を隠すため拳を作りながら、でも、と俺は考える。

 もし。

 もし、言ったら、長らく胸に蔓延る澱んだ感情は、薄れてくれるんだろうか。


 りつが、消してくれるんだろうか。



 無意識のうちに手を伸ばし、りつを腕の中に閉じ込める。
 なんの前触れもない行動だったのにりつは何も言わず、ぎゅうっと抱きしめ返してくる。
 いつもと変わらない抱き心地に、肩の力が抜けた。















「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥寂しくねーよ」
「‥‥‥‥‥」
「今は、お前がいるから、寂しくない」
「‥‥‥‥‥そっか」















 人間の俺の、今吐き出せる精一杯の弱音。
 そしたらりつは、よかった、って呟いて、よしよしと俺の髪を撫でる。
 その手つきが、俺がりつを撫でる時と全く同じで、笑ってしまった。







 何年かぶりに、少しだけ涙が溢れて。













 体から出た重たい数粒の代わりに、ひどく新鮮な空気が、ゆっくりと染み渡っていった。