5.字と




 家から帰ると、猫が部屋で本を読んでいた。







「‥‥‥‥‥‥‥‥‥ぶっ」







 ドアを開けた体勢のまま数秒固まった俺は、つい噴き出した。

 いや、笑うだろこれは。

 掌サイズの猫は、自分より余裕ででかい本に乗り上げるようにして、紙をじいっと覗き込んでる。
 何行か読み進んだら少し左へ移動して、また熱心に文字を追う。
 次のページに行く時は、爪を立てないよう両前脚の肉球で紙を捲り上げ、真ん中をぎゅうぎゅうと踏んで
 重たい表紙が倒れ込んでこないようにする。
 で、また読み始める。

 犬が本を読んでるような広告は見たことがあるけど、それは単なる写真の構図であって、演技だ。
 でもこの猫は本当に本を読んでる。
 字はわからなかったはずなのに、俺が学校にいる間暇に飽かして俺のノートや教科書を物色しているうち、
 理解できるようになったらしい。
 最初は冗談だと思ったけど、まあ人間じゃないから人間の常識は当てはまらないかと納得する。

 とにかくそれ以降、りつは本の虫だ。
 携帯の待ち受けをこの風景にするくらい面白かったのに、今はもう日常になってる。
 いや、面白いもんは面白いんだけど。







「おいりつ、お前熱中しすぎだろ。下まで迎えに来いよ」







 声を掛けたら、ようやくちらっと俺を見て。
 一瞬で本に向き直る。

 無視かよ。







「りーつ」
「にゃんっ」







 無理矢理抱き上げようとしたら、かぷりと手を噛まれた。
 りつは滅多に引っ掻かない。多分俺が怪我するから、だと思う。
 拒否を伝える時は甘噛み。
 まあこれ以上本から遠ざけたら、さすがに爪が出るだろうけど。
 仕方なく解放してやったら、またさっきと同じ体勢で読み始める。

 つまんね。

 図書館に入り浸らずすぐ帰ってくるようになって久しい俺は、めっきり本を読む時間が減った。
 なのに最近その目的であるりつが本にはまってしまって、俺は完全に放置されてる。
 でもりつがいるとなんとなく構いたくなって本に集中できないから、
 とりあえず子猫が怒らない程度に背中を撫でたり抱きしめたりしながら、だらだらと過ごした。
 今日も風呂は念入りに入れてやろうと、子供じみた仕返しを心に決めながら。





















「ねえまさむね、俺の名前この字がいい」







 人間になっても相変わらず本に没頭していたりつが、ふいに声を上げた。
 どれ、と身を乗り出すと、ページの中にあるふたつの字を指差す。
 俺は宿題の数学のノートを一枚破って、それを書き出してみた。















 璃都。















「‥‥‥‥‥まさむね?」







 しっくりこない。
 それが顔に出てたらしく、りつが首を傾げる。











「いや、まあ字は綺麗だけど‥‥‥‥‥俺はお前の名前聞いた時から、この字だと思ってたから」





























 律。





























 書いてやると、りつはじいっとそれを見つめる。
 それこそ、穴が開きそうなくらい。
 もっと丁寧な字で書けばよかったかと少しむずがゆくなる。







「まさむね‥‥‥‥‥、これ、どんな意味の字?」
「ん? そうだな、己を律するとか、律儀とか、そういうのに使うから。俺は強い字だと思う」
「ふうん‥‥‥‥」







 紙から目を逸らさないりつを、俺は黙って眺めた。
 眼差しがあんまりに真剣だったから。
 つい最近まで文字を理解していなかったりつに、それは一体どういうふうに見えてるんだろう。
 何か隠された景色とか、念とかあるんだろうか。


 不意に、りつが顔を上げた。
 綺麗な瞳に真正面から射抜かれる。







「俺、これにする」
「え?」
「名前」



 示したのは、俺がイメージしていた漢字。



























 律。



























「それは俺が勝手に思ってただけだぞ? お前の名前なんだから、好きなやつでいいだろ」
「ううん。これがいい」







 言って、満足そうに微笑むりつ。
 正直、その表情に俺は弱い。
 それを知ってか知らずか、りつが俺ににじり寄ってきて、ぴたりとひっついた。







「ねえ、まさむね」
「な、んだよ」
「まさむねってどう書くのか、教えてくれる?」







 その日。











 律が生まれて初めて書いた、微笑ましいくらい拙い字は、俺の名前だった。