9.




「お前が棲んでた山って、どのへん?」
「んー‥‥‥‥‥あっち」



 きっかけは、そんな他愛もない会話。

















 持ち物は、サンドイッチ、水、猫、財布、携帯、タオル。
 あと、りつが水飲む用の皿もいるか。
 それから一番大事なのが、コンパス。



「りつ」
「にゃん」
「もっかい方向教えて」



 りつがくるりと体の向きを変え、示す方角は、何度確認しても同じだ。
 野性的な何かが大好きな場所を記憶してるんだろうか。
 あれか、帰巣本能?
 とにかく信用できる方位があるのは助かる。

 日曜日の朝。
 天気がいいから、久しぶりに自転車を引っ張り出した。
 籠に荷物と猫を入れたら、猫が前足を籠について後ろ足で立って、ひょこりと顔を出す。
 まだかと言わんばかりに見上げてくるから、苦笑いしてサドルを跨いだ。



「よし。行くぞりつ」
「にゃあん!」



 勢いよく、空気を切った。



















 そんなに遠くないって言ってたから急ぐ気ゼロでのんびりサイクリングしてたけど、昼にはついた。
 なんでついたってわかったかというと、りつが突然にゃんにゃん鳴きだして籠の中で暴れ始めたからで。
 何事だと慌ててブレーキをかけた途端、子猫は狭い網から飛び出し、一目散に走って行く。

 その、先。







「‥‥‥‥‥‥‥‥ここ?」







 え、何、駅あるんだけど。
 簡単な改札があるだけで駅員すらいなくて、いかにも古い雰囲気だけど。
 何線‥‥‥‥‥? 全然知らない名前だし。
 とりあえずその辺に自転車を止めさせてもらい、荷物を持って猫を追う。
 周りは山、住宅、畑に田んぼ。
 なんか工場っぽいのもあるみたいだけど、一昔前みたいなのどかさだ。
 ついゆっくり歩いてると、りつが鳴いて急かしてくる。
 その山は、どうやら上の方に神社があるようで、意外にも道路が整備されていて中腹に食事処まであるらしい。看板がある。
 人が入ったことのない、道らしい道もないようなところを想像してたから、俺は完全に肩すかしを食らった気分だった。
 まあ、ありがたいっちゃありがたいけど。
 万一りつとはぐれて遭難したらどうしようとか結構本気で考えてた自分が馬鹿みたいだ。


 ひとつ溜息をついてから、とりあえず、テンション高そうにぴょんぴょん撥ねながらアスファルトの道を行くりつを追いかけた。















「おいりつ、速いって」
「にゃあん」



 しばらく分岐点もない舗装された道を進んだけど、途中で猫が脇に逸れた。
 見上げれば、車は絶対に通れない、森の中を突っ切っていくような道。
 でも一応神社に続いてますっていう看板が立ってるし、傾斜もそこまで酷くない。
 足下もさっきまでと違い、土や落ち葉でふわふわだ。
 が、固い地面に慣れた一現代人である俺はすぐ歩き疲れてしまった。まあチャリも漕いでたしな。
 そんなわけで今は地表にせり出した木の根に腰を下ろして少し遅い昼休憩中。
 りつは俺がサンドイッチを出すなりいなくなった。
 多分自分も昼食に行ったんだろう。出かける前、猫缶も入れようとしたら鞄に乗っかって断ってきた。
 でもあいつはここでずっと生活してたわけだし、食いっぱぐれることはないはず。
 何食ってんのか、興味あるな。木の実とか? いや鳥とかか?







「‥‥‥‥‥にしても、静かだな‥‥‥‥」







 なんの音もしない。
 家とかでは無音なようで、家電製品が呻る音とか、遠くで車がエンジン噴かしてるのが耳に付くわけだけど。
 今は本当の、本物の静寂。
 日常ではほとんど遭遇できない状況に思わず聞き入っていたら、不意にかさりと葉が鳴った。
 そっちに目を向けると、りつがとてとてと走り寄ってくるところで。
 ‥‥‥‥‥‥うん。可愛いよな。見た目子猫だしな。
 ていうか口の端っこから赤いものが垂れて‥‥‥‥‥‥え、血?
 いやいやいやいや。



「何咥えてんの、お前」



 りつを抱き上げるつもりで伸ばした手に、それがぽとりと落とされた。

 苺だ。

 といってもスーパーで売ってるようなのとは少し形が違い、どうやら野苺らしい。
 まじまじと眺めていたらりつが催促するように猫パンチしてくるから、口に入れた。



「うわ、うま」



 むしろ市販のよりうまいんじゃないかこれ。
 するとりつは満足そうに目を細めて、また今来た方向へ歩き出す。
 俺も荷物を纏めてついていった。
 地面に散らばった赤が見える。



「‥‥‥‥‥‥すげ、」



 その一帯は野苺だらけだった。毎年こうなんだろうか。
 さすがりつ、よく知ってるな。
 よじよじと肩に上ってくるりつの喉を撫でてやったら、誇らしそうにぐるぐると鳴った。
 サンドイッチの入っていたタッパを取り出し、その中に摘んだ苺を敷き詰めていく。
 時々りつに差し出してやると、嬉しげにもぐもぐ食べていく。
 ジャムにしてもうまそうだなって思ったけど、ちょっと無理か。生食でいけるうちに全部なくなりそうだ。
 でもりつがあんまり喜ぶから、ついつい欲張ってたくさん取ってしまった。
 きっちり蓋を閉めて、ひっくり返らないように鞄にしまう。
 りつは確かめるように、タッパの入っている辺りを肉球でべしべし叩いていた。















 その後ちょっと獣道っぽいところへ入って、こんなところに何があるのかと思ったら湧き水があった。
 水なんてなんでも一緒だと思ってたけど、口に含んだら体にすうっと馴染む味がした。
 清水を泳ぐ魚をりつが狙っている間に、ペットボトルの中身を湧き水に移し替える。
 神社にもお参りをして、あとは帰るだけだ。
 山は日が陰るのが早いっていうけど、本当に早い。まだ3時過ぎなのに視界が暗くなり始めてる。
 鳥居の外、木登りに興じているりつ。

 つい、声を掛けていた。



























「俺は帰るけど、どうする?」



























 りつは家猫じゃない。
 長い長い時を自然の中で生きてきた猫だ。
 人間に化けるようにならなければ山を下りることもなく、ずっとここで生きていただろう。
 少し寂しかった、とは言っていたけど、たとえば選択の余地があったならどちらを選んでいただろう。
 やっぱり、ここの方がいいんじゃないか。


 そんな俺に、りつは。















「にゃぁん」















 可笑しそうな、甘えるような鳴き声を上げて、さっさと山を下り始めた。
 俺もそれ以上は問わず、後に続く。
 都会育ちの上に家族で山に遊びに来ることもなかった俺にとって、こんな経験は初めてだった。新しい世界を垣間見て楽しいと思った。
 人里で暮らすりつも、もしかしたらそんな心境なのかもしれない。
 今は、それでいいか。
 いつか、どこにいても、あの家の位置がわかるようになれば。
 山のことは忘れなくても、りつの帰る場所のひとつに、あそこが加わってくれれば。



 それで、いい。















 街灯が点る中、家に着いた。
 りつは自分でぴょんと籠から飛び降りて、ドアを開けるなり、俺より早く中に入る。
 そして。











「にゃぁあ」











 玄関先に行儀良く座って、一声鳴いた。
 まるで俺が学校から帰ってきた時みたいに。
 つい、頬がゆるんだ。















「ただいま」















 とりあえずお前、風呂決定だからな。