にかいめはつでーと





「小野寺」





 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥嫌な予感しかしない。


「なんですか?」


 努めて平静を装いながら、俺は掴まれた腕を振りほどいてその人と向き合う。
 営業スマイルが爽やかですね編集長‥‥‥‥‥むしろ怖い。
 そんな高野さんが俺に差し出してきたのは、一枚のチケットだった。







 水族館のペア無料招待券。







「今週の土曜、空いてるよな? ちなみに拒否ったら徹夜三日くらい増やすから」



 丁重にお断りしたい、いや正直冗談じゃねーー!!! と言ってやりたい。
 しかし悲しいかな相手は編集長で上司、対する俺は一契約社員。
 権力を振りかざされたらひとたまりもないわけで。



「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ハイ」



 ああ、さよなら、俺の休日‥‥‥‥‥。























「‥‥‥‥‥‥‥あれ?」



 土曜日。

 ずっと憂鬱だった気持ちも忘れて俺が声を上げてしまったのは、水族館の外観を見た時だった。
 少し先を歩いていた高野さんが振り返る。


「どうした」
「え、あ‥‥‥‥‥‥‥‥‥い、いえ、なんでも」


 なんかデジャビュ‥‥‥‥‥‥
 というか、ホントに見覚えがあるような‥‥‥‥?
 まあ似たような建物なんかいくらでもあるよなと俺は思い直して、どうやら来たことがあるらしい高野さんについて、中に入った。



















 なんたって今日は土曜日。
 絶対カップルやら家族連れでぎゅうぎゅうだろう‥‥‥‥‥‥と思いきや、人はまばらだった。
 何を隠そう、もう閉館二時間前だったりする。
 いや、高野さんのせいだけど。

 曜日指定までして水族館に誘ったのは自分のくせに、よりによって昨日の夜、部屋に連れ込まれて。
 昼にやっと目が覚めた俺は日頃の疲れも相まって体がだるくて。
 明日でもいいでしょと言ったのに高野さんは予定が狂うのを嫌がり、
 日が傾いてからのろのろとなら動けるようになった俺を、行き帰り車で寝てていいからと強引に拉致ったわけだ。
 ホントどこまで横暴で自分勝手なんだ。



 と、不満は尽きないわけだけど。















「うわぁ‥‥‥‥‥‥‥」















 本が好きでどちらかというとインドア派の俺は、休日にわざわざ時間とお金を掛けて出かけようと思うことがあんまりない。
 水族館なんてどれくらいぶりだろう。
 この、透き通った青玉色の世界に、身を沈めるのは。







「――――――――――――――」







 黒い影を落としながら悠々と泳ぐ、人の何倍も大きな魚。
 鈍い輝きを放ちながら団体行動を取る、掌ほどの小さな魚。
 水族館に足を踏み入れて早々、俺は巨大水槽から動けなくなってしまった。
 ガラスの左端に立って右上を見上げる。
 まるでカーテンみたいに差し込んだ光が揺れる碧い世界で、この透明な仕切りがなければ触れられる位置を、
 水の生き物が通りすぎていく。
 あまりに近くて、自分がその中にいるような気持ちになる。


 瞬きすら焦れったいくらい、無心になって眺めていたら、ふと気配を感じた。
 一瞬目をやると、高野さんが俺の斜め後ろにいた。
 俺の視線に気付いて、軽く笑んだのがわかる。



「お前、やっぱりここ好きな」
「‥‥‥‥‥‥‥え?」
「なんでも。ほら、気が済むまで見てろ」



 高野さんはそれ以上何も言わず黙って水槽を見つめるから、俺もそれに倣う。
 しばらく背後が気になって集中できなかったけど、ガラスの向こうからこっちを見ている小さい魚に、すぐ意識が流れた。



















 じっとしているのに疲れてそこを離れた俺たちは、あんまり一緒に行動しなかった。
 順路に沿って進むから方向は同じだけど、俺がトンネル型の水槽に夢中になってる間高野さんは煙草を吸いに行ったり、
 こっちが熱帯魚を見てるとあっちはタツノオトシゴを見てたりする。
 好きなように回ればいいと思ってたから俺は気にしなかったし、向こうも気にしてないみたいだった。
 恋人同士でもないわけだし。
 でも、もうすぐ閉館時間となれば、話は別で。











「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥いないし」











 全部を心ゆくまで見ることは出来なかったけど、帰りを急かすような音楽が流れてきたから、仕方なく端折って出口まで歩く。
 が、高野さんがいない。
 気付かず通り過ぎてきた?
 いやいやあの人背高いから目立つしわかりそうなものだ。
 人だってかなり少ないし。
 また煙草か? それともトイレ? もしかしてもう外出ちゃったとか?

 俺は閑散とした土産物店の傍に佇んでいたけど、さすがに一旦引き返してみようかと思い始めた時。
 人影が見えた。
 ショップ付近は明るいけど魚のいるメインの空間は薄暗い。
 それでも、雰囲気で誰かくらいわかる。
 少しほっとした俺は、何か考える前に、声を上げていた。





























「嵯峨先輩!!」





























 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ん?
 あれ?
 俺、今‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥何言った‥‥‥‥‥?




 その人は一瞬足を止めて、でもそのままこっちに来る。


「どっかで入れ違ったらしいな。てっきりまた最初の水槽まで戻ってると思ってた」
「え、‥‥‥‥‥‥‥‥あ」
「何か買うか?」


 問われて俺が首を横に振ると、じゃあ出るか、と言って高野さんは出口へ向かう。
 俺も慌ててそれに付いていった。























「‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥」






 なんとなく、気まずい沈黙。
 いや、本当は気まずくなる必要なんかない。
 つい昔みたいに呼んじゃったけど、間違いではないんだし。
 でも‥‥‥‥‥



「‥‥‥‥小野寺」
「はっ、はい?」



 つい過去に意識を飛ばしていたら、突然現実に引き戻された。
 前を歩いていたいつの間にか高野さんがこっちを向いてて、俺もつい足を止める。



「ずっと聞きたかったんだけど。お前さ、なんで十年前のこと、そんな覚えてねーの」
「‥‥‥‥‥‥へっ? あ、あの」
「緊張しすぎて記憶に残らなかった? それとも、」



















 忘れようとした?



















 その問いに俺は咄嗟に口を開いたけど、そのまま凍り付いた。
 だってなんて答えればいい?
 長年恨み続けた相手といえど、さすがに肯定はできない。
 でも実際その通りで。
 俺が目を泳がせると、高野さんはそれを予想してたらしく気にする様子もない。



「でも、今日は思い出したみたいだな」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥やっぱり、ここって」

「初デートで来たとこ」





 初デート‥‥‥‥‥。





 確か父親にこの水族館のペア無料招待券をもらって、先輩を誘おうとして、でも恥ずかしすぎてできなくて。
 結局俺が落としたそれは先輩の手に渡り、逆に先輩に誘われたんだった。
 当日のことはろくに思い出せないけど。
 高野さんの言うとおり、緊張のしすぎで忘れる以前に覚えてなかったのかもしれない。
 でも「初デート」が敢行されたのは確かだ。


 外はもう完全に夜で、月も出ている。
 駐車場へ向かう道すがら、上から下から照らしてくる人工的な明かりの中で、高野さんはひどく懐かしそうな顔をしていた。
 この人は俺とのことを、全部覚えてるんだろうか。
 突然消息不明になった俺を、忘れようとしたことはなかったんだろうか。
 十年間で、この人は俺を、何回思い出したんだろう。
 何をきっかけに、何を思って、どんな感情で?



「夕飯どうする。適当に食べてくか?」
「‥‥‥‥‥‥いえ。帰ります」
「じゃあ何か作ってやる。そんで泊まれ」
「嫌です」
「今日は何もしねーよ」
「そういう問題じゃ」
「頼むから」



 ほんの、ほんの僅か。

 その声に縋るような色が混じっているのは気のせいか。





























「一緒に帰ろう、律」





























 水族館の帰り。
 先輩に家に来るかって言われたけど、俺は生命の危機を感じて断った。
 待ち合わせ場所に先輩が来た瞬間からいっぱいいっぱいな状態で、既に半日。
 これ以上なんて本当に心臓が破裂するかもと心配になって。
 あの時の俺は、容量が少なかったのもあるけどすぐキャパオーバーに陥るくらい、先輩が好きだったから。
 遠くから見てるだけで幸せだったのに、いきなり隣にいることに慣れるなんて不可能。
 だから「無理です」を連発して、一人で逃げるように帰った。


 そういえば、と俺は思う。
 自分のことで精一杯で、全然考えつかなかったけど。





























 俺がいなくなった後、残された先輩は、どんな気持ちでいたんだろう?





























「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥俺、あんまり食欲ないです」
「雑炊とかにするか?」
「ああいえ、それはなんでも‥‥‥‥‥」
「そうか」



 微妙に距離を保ちながら車に乗り込む。
 運転席と助手席は、これ以上近づきもしないし、離れもしない。
 不必要に構われた後なんかは少し離れられた気がしてほっとしたけど、今は、やけに近く感じて心許なかった。







「小野寺」
「、はい?」
「‥‥‥‥呼んだだけ」







 迷惑な!!
 俺はむっとしてその人を睨んだ、けど。


 眼鏡を掛けながら、なぜか満足げに微笑んでいる横顔を見て、言いたいことも言えなくなってしまう。


 なんだよ。
 返事しただけなのに、なんでそんな嬉しそうなんだよ。



「じゃ、帰るぞ。そんでお泊まりな」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥今日だけですからね」
「そうか? お前天の邪鬼だからな」
「関係ないでしょ!!」



 明日の日曜もこの調子で一日中一緒にぐだぐだ過ごすんだろうなと思うと、げんなりする。
 でもこれで、あの時先輩を置いて帰ったことはちゃらとしよう。







 俺はどんどん流れていく夜景を眺めて、胸の奥に感じるこそばゆさには気付かないふりをした。