その時杏ちゃんと一緒にいたのは、本当に偶然だった。
 俺はただ、いつものように図書室に向かっていただけなのに、たまたま鉢合わせてそのまま捕まってしまって。

「いいじゃない、一緒に帰ろうよー律っちゃん」
「いや、俺ホントに図書室行きたいから‥‥‥‥」
「どうして? いつもそう言って断るんだから、今日くらい私に付き合ってよ」
「でも俺は、」



 会いたい人が、いるから。



 そう口にしようとした瞬間、
 まさにその人が、俺の視界に入った。















「さ、嵯峨先輩っ!!」















 図書室以外で見かけることなんかそうそうない。
 俺は杏ちゃんがいることも忘れて、つい先輩を呼んでしまった。
 音量が必要以上に大きかったのか、何人かの生徒が俺の方を見る。

 先輩も。















「律」















 その目が俺を映すだけで、かあっと顔が赤くなる。
 その声が俺の名前を紡ぐだけで、ぎゅうっと心臓が締め付けられる。
 やっぱり駄目だ。
 自分から先輩を呼び止めたくせに、先輩を見られない。
 ああ、でも。
 こっち、来てくれる。



「これから図書室行くのか?」
「あ‥‥‥‥、はい」
「じゃあ一緒に、」
「すみませんけど!!」



 突然。
 ぐいっと腕を掴まれて、俺は我に返った。

 ‥‥‥‥‥‥‥そうだ、杏ちゃん。



「律っちゃんは今日、私と一緒に帰る約束なので!!」
「ちょ、杏ちゃんっ?」



 ぷう、と頬を膨らませた杏ちゃんは、嵯峨先輩を睨んでいる。
 俺は戸惑ったけど、先輩はわけがわからないっていう顔をしてる。
 まあそうだよね、多分面識ないだろうし、急に怒鳴られたら‥‥‥‥
 ていうか杏ちゃん、どうしたんだろう。
 こんなことする子じゃないのに。



「あ、杏ちゃん。この人は嵯峨先輩って言って、よく図書館で会ってるんだ。三年生だよ」
「‥‥‥‥‥ふーん」
「あー‥‥‥‥えっと先輩、すみません。この子は俺の幼馴染みで

「婚約者です!!!」







 俺の言葉を遮った杏ちゃんのその発言は、予想外以外の何者でもなかった。
 ぎょっとして、俺の腕をきつく掴んで体を密着させたままの杏ちゃんを見る。



「あ、杏ちゃん? 何言って」
「子供の頃から私は律っちゃんと婚約してるんです、だから律っちゃんを独占していいのは私なんです!!」
「ちょっ、」



 なんで今そんなこと言うんだ!?
 ていうか婚約って、こないだちゃんと断ったのに!!
 どこから反論すればいいかわからなくて凍り付いていると、不意に、先輩の声がした。



「‥‥‥‥‥‥‥‥‥婚約?」
「そうですっ」
「子供の頃から‥‥‥‥‥?」
「だからそう言ってるじゃないですか!!」



 口、挟めない‥‥‥‥‥‥‥
 困惑してたら、先輩が俺を呼んだ。
 いつもと違う、低くて唸るような声音。



















「お前、婚約者いるなら、なんで俺にまとわりついてたの」



















 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥あぁ、やばい。



 よくわからないけど、とてつもなく、やばい気がする。
 今すぐ弁解しなきゃいけないのに、あまりの事態に喉が塞がる。







「‥‥‥‥‥‥っせ、んぱ、」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥んだよ‥‥‥‥‥‥。最悪だなお前」
「ち、ちが‥‥‥‥‥っっ」
「俺、もう帰るわ」







 す、と。
 微かに髪がなびく。

 先輩が目の前を通り過ぎて、視界から消える。
 でも俺は追いかけるどころか、指先すら動かせなかった。
 振り返ることも。



「ね、律っちゃん、早く帰ろっ!」



 それから先の記憶がない。
 気がついたら、夕闇が迫る自分の部屋にへたり込んでいた。
 ただひとつ、確かなのは。
 先輩に杏ちゃんのことを勘違いされたままだっていうこと。



















“婚約者いるなら、なんで俺にまとわりついてたの”


“最悪だなお前”





 夢を見る。
 夢の中でも、俺は先輩に釈明できない。
 出てこない俺の言葉を待つことなく、先輩は俺の前からいなくなってしまう。















 あの日から、先輩は図書室に来なくなった。
 司書の先生に「もう遅いから帰りなさい」ってやんわり追い出されるまで、放課後はずっと図書室で待った。
 でも先輩を見かけることはなかった。
 居ても立ってもいられなくて、先輩の教室にも行った。
 三年生の階には、当たり前だけど二つ年上の全然知らない先輩達ばっかり。
 俺はびくびくしながら、教室の前を通り過ぎる時にちらっと中を窺う。
 ちゃんと立ち止まって捜さないのが悪いのか、タイミングが悪いのかわからないけど、
 何度繰り返しても俺は先輩を見つけられなかった。











 苦しい。











 遠くから見ているだけにしようと決めていた。
 なのに片思い四年目、先輩を目の前にした俺はついうっかり、告白をしてしまって。
 でもまさか「付き合ってもいい」なんて返事がくるとは思ってもなくて。

 それからは本当に夢みたいだった。

 俺は手を伸ばせば先輩に届く、そんな距離にいられるようになった。
 目が合うだけで、名前を呼ばれるだけで、奇跡。
 キスとかそれ以上はもう、キャパオーバーで完全にパニック。
 先輩はそんな傍にいるだけで満身創痍の俺に、好きなんて言わないものの、別れたいとも言わなかった。
 同じ時間を重ねられるだけで、俺は幸せだった。

 それなのに。







 それなのに、誤解で、終わってしまうなんて。







 嫌いだ気持ち悪いと軽蔑された方がまだマシだ。











 こんなの、嫌だ。いやだいやだいやだ。











 俺は一人、先輩を捜し続けた。
 今回のことで嫌われたというのならもう仕方ない。

 だからどうかせめて、このわだかまりだけは、