The piano, sounds like a carnival
And the microphone smells like a beer
And they sit at the bar and put bread in my jar


And say,






   “Man, what are you doing here?”











「あれ? お兄さん‥‥‥‥‥もしかして、さっきあっちでピアノ弾いてた人ですか?」











 奥まった席で一人呑んでた俺。
 背後のカウンター席から聞こえたそんな言葉に、ぎくりと反応してしまった。

 いや、見えてないと思う。
 見えてたとしても、気付いてないとは思うけど。







 まさか、











「‥‥‥‥‥ええ、そうですよ」
「やっぱりー!! 横顔かっこいいなーと思ってたんですけど、正面からの方がイケメンですね!!」
「はは。照明が暗いからそう見えるだけですよ、きっと」











 ああ、声がする。
 歌う時とはまた違う声。
 それが鼓膜を揺らすだけで、一瞬心臓が止まり、ぞわりと皮膚が粟立ち、反射のように体が強張ってしまう。

 あの人の前になんか、行けない。
 こんな情けない状態じゃ話なんてできない。
 だから遠くから、他の人に向けられたその声を聞くだけ。



 俺はそれで満足。





「さっきの歌、すごく素敵でした。片思いの。切なくて、でも本当に共感できました」
「ありがとうございます」
「自作なんですか?」
「ええ、まあ‥‥‥‥‥」
「こいつは今の自分の気持ちをそのまま歌にするヤツですからね。念がこもるのは当たり前ですよ」
「ちょっと店長、」
「へえ、そうなんですか」





 ああ、やっぱり未だにそうなんだ。
 俺が初めてあの人の歌を聴いた頃は、夢を追いかける期待と不安に充ち満ちた内容だった。
 それがいつしか、ラブソングになっていたんだ。
 切なくて切なくてたまらない歌詞だけど、その声やピアノの音色と絡まって、相手をどれだけ想っているかが手に取るように伝わってくる。


 応援したかった。
 でもそれができないから、俺はここに来なくなったんだ。
 たくさんのことが変わっただろうと思って、十年経って来てみたけれど。
 結局、変わってはいなかった。











 店も、高野さんも、俺も、何一つとして。











「でも、ちょっともったいないですよね。こんなこと店長さんの前で言ったら失礼かもしれませんけど‥‥‥‥‥‥
 なんていうか、デビューとか、できそうなのに」







 そう、一番驚いたのはそれ。
 十年前、既にいくつも話をもらってると聞いていたのに。
 まさか今でもここでピアノを弾いているとは思わなかった。
 俺の背後、カウンターで高野さんが苦笑いする気配。







「昔はそのつもりでしたけどね。ちょっと理由がありまして」
「理由?」
「ここで出逢った子に一目惚れして、また会いたいからって残ってるんですよ。
 こんな顔で十年も一途に片思いしててしかも奥手なんて、笑っちゃいますよねー」
「店長‥‥‥‥‥」







 俺は自分の耳を疑った。
 でも店長さんは今、確かに言った。
 片思いだって。
 それも、十年経った今でも。
 高野さんは嬉々としてそんなことばらされて呆れた様子だけど、否定、しない。















 俺と‥‥‥‥‥‥‥‥一緒?















 混乱する俺などもちろんお構いなしに、会話が続く。







「でも最近‥‥‥‥ここ一ヶ月くらいか? 歌の雰囲気変わったよな。
 片思いなのは同じだけど、長らく続いてた離れてて寂しいみたいな乙女っぽい感じじゃなくなったな」
「乙女‥‥‥‥‥‥。まあ、そいつまた店来るようになりましたからね」
「え、マジか!」
「といっても面と向かってはないんで、まだ再会したとは言えないかもしれませんけど」







 ―――――――― 一ヶ月?







 微かに点ってしまった希望の灯を、俺は必死に消そうとする。
 だってだって、話もそんなにしたことがないのに、有り得ないじゃないか。
 俺は現にそれを引きずってるけど、でも、











「会われないんですか?」











 遠慮がちな、女性のお客さんの声。
 それにやわらかく、けれど凛として答える、高野さんの声。







「俺から近づくつもりはありません。だってこれだけ必死になって自分の気持ちを歌ってアピールしてるんですから。フェアじゃないでしょ?」
「それはそうですけど‥‥‥‥‥、また会えなくなっちゃったら」
「その時はその時です。もちろん本音を言えば、今すぐ抱きしめたいんですけどね」







 それでも待つ、と宣言する彼は、僅かに不安げで、それでいてどこか弾んでいる。
 まるで、その相手との駆け引きを楽しむかのように。
 それすら愛おしいとでもいうように。




 高野さんや店長さんと話をしていた女性客は少しして帰ったようだった。
 グランドピアノが置いてあることもありそう広くはない店、あちこちから会話がさざ波のように流れてくる。
 立地や高級感のある落ち着いた雰囲気のせいか、昔から変に酔う人は少ない。
 高野さんのピアノを楽しみにしてきているお客さんも多いから。
 俺の父にここを教えたのもそんな常連さんの一人だった。







 どれくらい経っただろう。
 五分? 十分? 一時間?
 散々逡巡したくせに、席から立ち上がった瞬間の俺は完全に無意識で、なんだかからっぽだった。
 そんな頭が真っ白な状態のまま、足はカウンターへ向かう。

 お酒作れるようになったんですね。
 そんなに長い間ここにいたんですね。





























 ねえ、誰を待ってたんですか?





























「‥‥‥‥‥‥あんだけ言って、来てくれなかったら本気でどうしようかと思った」


















 真正面から彼の顔を見るのはどれくらいぶりだろう。
 いや、もしかしたら初めてかもしれない。
 この人の前に立つと、昔からどきどきして、堪らなくて。
 目なんか一度も合わせられなかった気がする。
 大人っぽくなった、というか大人になったのは、さすがにわかるけど。







 カウンター越し、高野さんが手を伸ばす。
 俺の頬に、指先が触れる。
 骨張って、細くて、長い指。
 ピアノを弾く指。
 きらきら溢れる恋を奏でる、指。





























 たった一人への想いを紡ぎ続ける、ピアノマン。





























「‥‥‥‥‥お前、変わらねーのな」
「‥‥‥‥‥‥」
「ピアノ弾いてる時はじーっと俺のこと見てるくせに、チップは絶対、俺が誰かと話してる時に入れるし。で、目が合う前に逃げるし」
「う‥‥‥‥‥」
「童顔も相変わらずだな。初めて会った時も二個下とは思えなかったけど‥‥‥‥てことは今25か? とても成人してるようには見えねーな」







 なんでこの人はこう、気にしてることをずけずけと‥‥‥‥‥っ!!!
 直前に感じた、いろいろばれていたことへの羞恥はどこへやら。
 イラッと来た俺はついつい、高野さんをじとっと睨んでしまった。
 こっちは怒ってるのに、その顔は初めて見たなんて笑われるから、更に機嫌が落ちる。















 でも、



























「―――――――――律」



























 不意に。
 高野さんの笑みから、からかいが消えて。















 ふっと目を細めて、彼は、咲った。































「会いたかった」































 どきん。


 心臓が、撥ねる。


 咄嗟に顔を逸らしたけど、顎を掴まれてやさしく正面に戻されて。
 それでもうろうろと視線を泳がせて悪足掻きする。
 ホント可愛いな、と思わずといった感じで呟かれて、じわじわ頬が熱くなった。
 そんなこと言うキャラじゃなかったくせに。



 十年ぶりというのもあって、浮き足立ってどうすればいいかよくわからない俺たちを見かねたのか、
 黙って佇んでいた店長さんが高野さんに今日はもう帰るよう言った。
 本来この時間なら閉店まであと二回くらい、高野さんの演奏があるはずなのだけど。
 でも俺がそれを口にする前に、客寄せである彼は簡潔に礼を述べると、俺に外で待っているよう言ってさっさと奥へ引っ込んでしまった。

 俺はとにかく会計を済ませ、店を出た。