日付が変わった時間帯。
平日の仕事後は寄る気力なんかないから、いつもここに来るのは土曜日の夜だ。
サラリーマン系の人は少ないけど、若者やカップルでそれなりに人通りのある脇道。
吐き出した白い息が跡形もなく霧散していく。
「結構寒ぃな」
振り返ろうとするのと同時、肩が並ぶ。
「やっぱ中で待たせてりゃよかったな」
「‥‥‥‥‥‥コートが厚手なんで大丈夫ですけど。高野さんはなんでそんな薄着なんですか」
「家近いから油断した。早いとこ行くぞ」
歩き出す背中。
どこに、なんて聞けなかった。
思ったまま問うて、その歩みを止めてしまったら、途端にぱちんと夢が覚めてしまいそうで。
ただ、黙って着いていく。
「なあ、律」
「、はい」
「十年ぶり、だよな? 会うの」
「そう、ですね」
「俺の歌とかピアノとか、久しぶりに聞いて、どうだった」
どうだった、って。
「‥‥‥‥‥、‥‥‥‥‥‥‥音域、下がりましたよね」
「あーまあ、それはな」
わかってる。
そんなこと聞かれてるんじゃないことくらい。
でも、じゃあなんて答えればいい?
あのほろ苦い片恋の歌が、誰に向けられたものか確証がない今。
そのために十年もあの店から遠ざかった俺が。
「お前、なんで店来なくなったの」
俺としては、あんたが十年前のただの一客だった俺を覚えていたことの方が疑問ですよ。
どうしてそんなふうに尋ねてくるのかも。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥高野さんの、歌が」
「ん?」
「恋の歌になったから‥‥‥‥‥」
言いながら、その内容の爆弾性に気付き、俺の声のボリュームが尻すぼみに小さくなった。
やばい、どうしよう。
これって、下手すればただの告白じゃないか。
ざあっと血の気が引き、足下が覚束なくなり、少し背中が遠ざかる。
聞こえてなければいい。
聞き返されたらなんでもなかったことにし通そう。
そう決意し、ぎゅっと拳を固めた時。
振り返ることもないまま、高野さんが話しかけてきた。
「‥‥‥‥‥もう十年前、なんだよな‥‥‥‥‥。お前が最初に、親父さんに連れられて店来たの」
「‥‥‥‥‥‥」
「俺、まだあそこに居着いてから何ヶ月かしか経ってなくて。いろいろ不安もあったし、まあ家庭的な事情もあったし、
いっつも無感情で技術だけ駆使してピアノ弾いて、漠然とした気持ちをただ歌にしてただけなんだよな」
「‥‥‥‥‥‥そうなんですか?」
「そーだよ。でもさ、年近いのもあって歌詞に共感してくれたのか、すごい感動したって泣きながらチップ入れに来たヤツがいたんだよ」
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥それって、もしかしなくても俺じゃないだろうか。
社長仲間に教えてもらい、社会勉強として俺を同伴してあの店に行った父は、
ぼろぼろに泣く俺を見て呆れたような困惑したような感じで頭を撫でてくれた。
―――――――いや、違う?
そういえば、父の手にしては華奢だった気がする。
じゃああの時、心が動いたままに涙を零す俺の髪を、やさしく撫でつけるようにしてくれたのは、
「嬉しかったよ、そんなに感じ入ってくれて。
でも俺と大して年も変わらないヤツが、初対面の俺に素直すぎるくらい感情溢れさせてるの見てたら、
なんか、すごいむず痒くて。羨ましくて」
愛しくて。
その言葉の意味を理解する前に、高野さんが足を止めて。
俺はびくっと肩を揺らしてしまった。
どうしよう、醒める。
夢が、覚めてしまう。
でも、その人がこっちを向いても、この瞬間がシャボン玉のように消える‥‥‥‥‥なんてことは、なくて。
本当に現実なのだと実感した途端、足が竦んだ。
取り返しが付かない事への恐怖。
そして、微かな微かな、甘い未来への期待。
「お前が来なくなって、本気でどうすればいいかわからなくなった。俺が歌う意義があるのかどうかすら疑問だった」
「‥‥‥‥‥‥っ、」
「デビューしようかって悩んだよ。俺の名前が知られるようになったら、いつかお前の耳にも届くかも知れないから。
‥‥‥‥‥‥でも、そんなことに意味はないって考え直した」
「意味がない‥‥‥‥‥?」
「お前が俺の名前を聞くことに意味なんかあるか? 俺はお前に会いたかった。お前の思い出になるつもりは毛頭なかった。
だから、あの店で、ずっと待ってたんだ」
固めた拳を掬い取られ、まるでほぐすみたいに撫でられる。
骨張った手はいかにも男性のものけど、やっぱりどこか華奢なイメージ。
つい力をゆるめたら、高野さんが満足そうに微笑んで、俺を見た。
少しずつ速度を増していた鼓動が、あからさまに大きくなる。
ああ、苦手だ。
やわらかく、でもまっすぐに射抜いてくる瞳。
そこに俺だけが映っていると思うと嬉しくて恥ずかしくて、逃げたくなる。
本当に相変わらずだ、俺。
何も変わらない。
「なあ、律。好きだよ」
「‥‥‥‥‥‥‥!?」
「お前の体も心も、未来も、全部欲しい。問答無用で奪おうかとも正直思ったけど、でもやっぱり、返事が聞きたい」
まるで忠誠を誓うように、手の甲に唇が落ちた。
屋外で何やってるんだ、なんて、もちろん怒れるわけがない。
突然ぶつけられた好意があまりに予想外で、受けとめるのが精一杯な俺は、指先すらまともに動かせない。
好き?
欲しい?
返事?
‥‥‥‥‥‥‥‥‥返事は、
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ひとつだけ、条件呑んでくれたら、いいですよ」
「なに?」
「一度だけでいいから、俺だけのために、歌ってください」
声が震えた。
だってずっと、思っていたんだ。
貴方の演奏を初めて聴いた、あの日から。
もしも、もしもその美しい旋律が俺だけのものだったとしたら、どんなに素敵で幸せだろうって。
俺は、貴方が好きだから。
貴方が紡ぎ出す音色も、愛おしくて仕方ないから。
そうしたら。
高野さんは、あろうことか、げんなりしたような表情を見せた。
「‥‥‥‥‥‥‥あー。そーゆーことか。だからお前が来なくなったんだな」
「へ? なんですか急に」
「なんでも。ただお前が予想以上にお馬鹿で鈍ちんだってことがよーーくわかった」
「な゛っ」
なんて失礼な!!
睨みつけてやったら、なんだその目はと、両手でばちんと頬を挟まれた。
‥‥‥‥‥‥‥‥微妙に唇が突き出ている気が‥‥‥‥‥‥
「‥‥‥‥‥ぶっさいく」
「にゃぐりますよ」
「うるせ。苛ついてんのはこっちだ」
眉間に皺を寄せている高野さん。
前から感情の起伏をあまり晒さない人だから、俺は首を傾げた。
それを見て、更に機嫌の悪さは増したようで。
剣呑な雰囲気になると同時、今度はむぎゅっと皮膚を引っ張られた。
力加減なしに。
「いっいひゃいいひゃい、いひゃいれふ!!」
「あのな、俺はお前に会った次の日からずっと、お前のためだけに歌ってんだよ」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥ふ、え?」
「お前が来てから、俺の世界は何もかも変わった。馬鹿みたいにお前に惹かれて、焦がれてた。
お前が居た間はもちろん、いなくなってからも、また店に来るようになってからも、ずっとずっと、お前だけに届けばいいと思って歌ってきたんだ」
「‥‥‥‥‥‥‥っ」
なんですか、それ。
普段は好意の欠片も見せなかったくせに。
わかるわけがないじゃないか。
なのに、なんで俺が怒られなきゃならないんだ。
「‥‥‥‥‥‥‥あの頃言ってくれてたら、こんな遠回り、しませんでしたよ」
口から零れるのは恨み言。
でも、目からは涙が溢れてくる。
俺、この人が関わると泣いてばっかりだ。
初めて会った時も、あの音に感激して泣いたし。
報われないと知っても消えてくれない恋心が痛すぎて、この十年何度も泣いたし。
今も泣いてる。
あぁでも嬉し泣きは初めてかな、なんてぼやぼやした頭で考えてたら、軽く顔を上げられた。
ちゅ、という音がやけに耳に響く。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ん?
今のってなんだ?
唇に何された?
呆気にとられて目を瞬かせると、水滴が更に頬を伝い落ち、やっと視界が晴れる。
いつの間にか、整った顔がぼやけそうなほど近くにあった。
「律、教えて」
「‥‥‥‥‥‥」
「俺は、お前が欲しい。だからもらっていい? お前は、俺が欲しい?」
「‥‥‥‥‥そんなの、」
つい、笑みが漏れる。
だって俺にはずっと、イエス以外の返事なんか、ないんだから。
俺は頬をくるむ手に自分の手を重ね、そろりと瞼を下ろした。
降ってくるのは、ネオンの光を含んだ闇と、想いの詰まった口付け。
明日ピアノマンが奏でるのは、ようやく実を結んだ愛への賛歌。