腹が痛い。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ちょっと嵯峨」
「おう、」
「いい加減にしないとマジで怒るけど」
目の前には、怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にしている律。
そいつが今着てるのは、
高等部の学ランじゃなくて、中等部のブレザー。
‥‥‥‥‥‥‥違和感なさすぎる。
俺はずきずき痛む脇腹を押さえながら、それでもこみ上げる笑いに肩を震わせて声を殺すしかなかった。
律は動物が苦手だ。
俺の家にいる子猫でさえ怖がるほどに。
そんなこいつが昨日の帰り、通りかかった住宅の前で、
二メートルはありそうな(律・談)でかい犬に思いっきり吠えられたという。
門を突き破りそうな勢いでいきなりぎゃんぎゃんやられたもんだから、
止まりかけた心臓を押さえてふらっと後ろによろめいて、向かいの家の塀にぶつかった、のだが。
古いギャグよろしくそこは新築、ペンキ塗り立てだったらしい。
背中部分に緑色がくっきりついてしまって、慌てて家に帰って母親に言うと、
「早い方がいいから」と一着しかない学ランを即クリーニングへ出してしまった。
翌日が休みならそれで話は終わっただろうけど、残念ながら今日は金曜日。
この時期、セーターだけじゃどうしても寒いから、やむなく中等部のブレザーを着てきた‥‥‥‥‥‥‥というわけだ。
ツッコミどころが多すぎる。
とりあえず一番おかしいのは、学ランよりブレザーのが似合ってること。
しかもサイズがぴったりっていう。
「くは、しんど‥‥‥‥‥てかお前さ、身長変わってねーの?」
「なっ失礼な!! これ二着目なんだよ、予想外に背伸びたから三年になる前に買ったんだよ!!
その時大きめにしたから、今ちょうどよくなっててっ」
「おー。マジ違和感ねーわ」
むかつく‥‥‥‥‥‥っ!!!
ぎりぎりと歯噛みしながら心の中でそう喚いているんだろう。
わかりやす。
かわいい。
それにしても、本当に懐かしくて、俺は目を細めた。
色素の薄い髪色に、ブレザー。
真っ赤な顔。
見られてるって気付いたのは、中1の秋くらいだったか。
入学式直後から毎日図書室に通っていたけど、というかむしろ図書室目当てで学校に来てたようなもんだけど、予想外のオプション。
しかも相手は男。
最初はなんとも思わなかった。
俺が借りた本をあいつが全部チェックしてると気付いてからは、だんだん鬱陶しいとか気持ち悪いとか思い始めた。
煩わしい。
俺の家は、というか家族はずっと冷え切っていて、誰かと関わりたいという気持ちを失って久しかった。
誰かに何か期待するだけ無駄だと、悟っていた。
頼れるのは自分だけ。
だからその他一般と同様、そいつもひたすらにうざいだけだった。
なのに。
最初はいつだったか。
あいつから向けられる視線に救われた気がしたのは。
普段は閑散としてるが、特にテスト週間前なんか、図書室は様変わりしたように生徒でごった返す。
そんな中でも、あいつは必ず俺を見つける。
どれが誰だか、いっそ自分すら見失いそうな状態でも、あいつは俺を懸命に目で追ってくる。
近づきすぎるとあからさまに慌てて離れて、でも離れすぎそうになると、恐る恐る追いかけてきて。
それをいつしか嬉しいと思うようになっていた俺は、やっぱりおかしいんだろうか。
よりによってストーカー行為に安堵を見出して。
しかもそれだけじゃ飽きたらず、そいつを好きになって。
「‥‥‥‥‥‥‥‥嵯峨」
「ん」
「何見てんだよ」
「いーだろ、減るもんじゃなし」
「うざ‥‥‥‥」
「なんだよ、お前だって俺のこと散々見てただろーが」
「な゛っ」
人畜無害な、ただ見てるだけのストーカー。
五年間、飽きもせず。
俺のこと、そんな純粋にずっと好きでいてくれるのなんて、多分お前くらいだよ。
そう思ったらつい手を伸ばして、今更のように動揺する律の頭を撫でていた。
あ、やわらけ。
「な、なんだよ‥‥‥‥‥っ」
「減らねーだろ」
「減らなきゃいいってもんじゃないだろ!!」
べしっとはたかれたけど、指には感触が残ってる。
すげーさらさらだった。
なんか手入れでもしてんのかな。
茶色っぽいのは‥‥‥‥‥地毛だな。制服もきっちり着る真面目なこいつが染めたり脱色したりしてるとは思えない。
そういや俺、こいつのことまだあんま知らねーかも。
「お前誕生日いつ?」
「何がどうなったらいきなりその話題になるんだよ」
呆れきった顔。
おどおどしながら俺を遠巻きに見てたあれはどこに行った。本当に同一人物か。
まあでも、予想や理想通りだったら気持ち悪いだけか。
最近知った小野寺律っていうヤツは、結構ひねくれ者でそのくせ素直で、天の邪鬼で照れ屋でツンツンしてて。
本と俺が好き。
ついでに俺も好き。
「つーかさ、律。お前さっきから俺のこと『嵯峨』って呼んでるけど」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥え」
「名前で呼ばなきゃオシオキって、こないだ言ったよな?」
さぁっと、律の顔から血の気が引く。
やべえ、面白い。可愛い。
まあこいつのことだから、多分本気だと思ってないだろうとは思ってたけど。
いい反応に俺は口元がにやにやするのを抑えられない。
「覚えてたのにわざわざ名字とか、どんだけオシオキされたかったのお前」
「はっはあああ!!? んなわけあるか!!! 寝言は寝て言え!!!」
「あーうるさいうるさい。おら帰るぞ。つっても俺の家にだけど」
「嫌だ絶対に嫌だっ離せーーー!!!」
ぎゃんぎゃんうるさい律を引っ張って校舎から出る。
いい天気だ。
雲一つ無い、とは言わないけど。
「‥‥‥‥‥‥‥‥あのー」
「なんだよ」
「手、離していただけませんかね」
「なんで?」
握りしめたままの、律の手。
力を込めてやると、突然振り払われた。
さすがに驚いて振り返る。
律はなんともいえない表情で俯き、俺を視界から消していた。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥あ、のさ。そうやって、からかわないでほしいんだけど」
「は?」
「なんのつもりでこんなことしてるか知らないけど、たち悪すぎじゃない?」
何言ってんだこいつ。
首を傾げる俺を、律は恨めしそうに睨んできた。
「遊んでるんだろ」
‥‥‥‥‥‥ああ、そういうことか。
「俺、お前に好きって言ってなかったっけ?」
聞くと、律は目を瞠って顔を上げかけて。
でも次の瞬間、期待なんかしたくないっていうみたいに唇を噛んで視線を逸らす。
そんな顔する必要なんかないのに。
俺は振り払われたばかりの手を、また差し出した。
「教えてやるよ。俺がどれだけお前のこと好きか、どれだけお前に依存してるか。嫌ってくらいわからせてやる。
俺を名前で呼ばなかったオシオキついでにな」
「‥‥‥‥‥‥っ、」
「来い、律」
伝えてなかったなら、思いの丈をそのままぶつけるまで。
伝わってないなら、何度でも教えてやるまで。
絶対の自信を持って呼ぶと、律は少し躊躇って。
その手を、俺に向かって、伸ばした。
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