「へえ、そうですか」
あんまりにも気のない返事に、俺は耳を疑った。
もしかして最初から自分だと、「高律政宗」イコール「嵯峨政宗」だと気付いていたのかと相手の顔をまじまじ見るが、そういうわけでもなさそうだ。
というか、完璧なる無表情。
興味ないと言わんばかりに。
一瞬ブチ切れそうになる。
「てめ…それだけかよ」
「じゃあどういう反応を期待してたんですか?」
ようやく、僅かに口許が動く。しかし浮かんだ笑みは、まるで嘲るような。
ショックだった。さすがに。
「……オイ、いくらなんでもそれはねーだろ。人に回し蹴りして突然行方不明になったくせに詫びもなしか」
「回し蹴り? そんなことしましたっけ? 俺が覚えてるのはあんたに遊ばれてたってことだけですよ」
「は? なんの話だ」
恐怖にも似た苛立ちが不安に変わる。話が噛み合っていないから、だけではない。
これは、本当に律なのだろうか。
確かに十年は半端ではない年月だ。それは身をもって実感している。
しかしこんなに、こんなにも、変わってしまうものなのか?
『嵯峨先輩』
あの律が、こんな冷たい目を、自分に向けてくるなんて。
「とにかく、いきなり押し倒してキスなんてセクハラもいいとこですよ。昔の知り合いだからってやっていいことと悪いことがあります。
またすぐ仕事変えるの嫌なんでとりあえずなかったことにしますけど、今度やったらマジで訴えますから」
それじゃあお疲れさまでした、と。
おざなりに頭を下げて、そいつは出ていく。
俺はもう、ただただ立ち尽くすしかなかった。
何も信じたくなかった。
『先輩、好きです』
あれはやっぱり、夢だったんだろうか。
小野寺律は、俺が知ってる織田律とはずいぶん様子が違っていた。
ひねくれていて、卑屈で、完璧主義で、あまり笑わない。感情を押し込んだように反応が薄い。
わからないことはちゃんと聞くし、他のエメ編部員ともそれなりにやってはいるようだが、積極的に打ち解けようとしている感じは全くない。
けれど、がむしゃらに仕事をするところとか、少女漫画編集初心者にはかなりぎりぎりな要求をしても必死にこなすところは、やっぱり律だと思った。
あの、まぶしいくらいにまっすぐな。
「飯食ってけ」
だからつい、仕事以外の時間は構ってしまおうとするのだが。
「うざいです」
………………ありえねー。
「てめぇ…仕事教わっといて上司の誘いも聞けねーのか。しかも作ってやるっつってんだぞ」
「いりません。百本ノックがまだだし早く帰りたいんで」
「どうせ隣なんだからちょっとくらいいいだろが」
「遅くまで付き合わせてどうもすみませんでした。では」
まさかのお隣さんという事実が発覚してからは仕事にかこつけて家に誘い込んではいるのだが、小野寺はつれない。用が済んだ瞬間に片付けて出ていこうとする。
あんまりな態度に苛立った俺は、さっさと玄関へ向かう小野寺を腕を掴んで壁に押さえつけ、キスをした。
腕は拘束しているが、足は自由だ。あの回し蹴りからしてこいつは足癖が悪い。何か動きがあったら対応できるよう、俺は身構えていた。
しかし意外なことに、薄い唇を解放するまで抵抗らしい抵抗は一切なかった。
ふと目が合うと、小野寺は相変わらずの無表情で、一言。
「満足ですか?」
絶句する俺をよそに、そいつはするりと俺と壁の間から抜け出して。
「仕事教えてもらったのは、これでチャラですね」
今度こそ、部屋を出ていった。
振り返る素振りすら見せずに。
まったく取りつく島もない。
イライラしてるから小野寺への仕事上の要求もつい厳しくなり、怨めしげに睨まれることもしばしばだ。
でも絶対にこいつが悪い。曲がりなりにも十年ぶりの恋人との再会なのに、この態度はないだろ。いやマジでありえねーだろ。
ていうか勝手にいなくなったことの謝罪もまだ受けてない。あいつは「遊ばれた」とか言ってたけど意味不明だ。でもその真意も結局問い質せずにいる。
周期を抜けても、俺のもやもやした不完全燃焼な感じは治まらない。
そんな頃だった。
「あー高野、ちょっといいか」
再び井坂さんがエメ編に姿を見せて、俺は内心戸惑った。
専務取締役がこう一日に何度も編集部に顔を出すことは通常ないことだ。
しかもさっき呼んだのはまだ新人の一契約社員、今度はその上司である編集長。
もしや相当やばいんじゃないかとトリ、木佐、美濃が顔を見合わせる。盛大に困惑した様子で。
だって、小野寺は大したヘマを何もしていない。そんなことをするやつでもないのに。
しかしこちらのそういう空気を読み取り、また他の編集部にまでそれが伝染しないよう気を遣ったのか、井坂さんはすぐに引っ込んだ。
俺は三人に軽く目配せして席を立つ。
「いやーあのさ、ちょーっと困ったことになってるっぽいんだよな」
いつも飄々としたその人に似合わず、参ったな、というように頭を掻く。
連れ立って歩く廊下は人気がないが、万が一にも聞かれたくないのか声をひそめて。
一体何事だ。
こっちは何も聞いてない。前兆もなかった。
「小野寺がどうかしたんですか?」
「あーーまあ、どうかした、っていうか……家族の問題だからさー。いくらゴルフ仲間だからって俺もあんま首突っ込みたくないんだけどな」
がたがたっがしゃん、と近くで大きな音がした。
突然のことに肝を潰した俺とは違い、すぐに状況を察したらしい井坂さんがろくにノックもせずその会議室のドアを開けた。
中にはいつになく乱れた机と、仁王立ちするスーツの男の後ろ姿。若くはない。五十は過ぎてるだろう。
そして、その足元で倒れこんでいるのは。
「小野寺…!?」
「っちょ、あーー社長、落ち着いてください。さすがにやりすぎですよ」
「井坂くんは黙っていてくれ。これはうちの問題なんだ」
「いやー非常に申し上げにくいんですが、ここは小野寺さんではなく一応丸川なので…」
井坂さんが相手を宥めている隙に、俺は小野寺に駆け寄る。
殴られたのか、頬が赤くなっている。さっきの音は倒れる時に勢い余って机にぶつかったんだろう。巻き添えを食った椅子もひとつ横倒しになっている。
自力で上体を起こした小野寺の肩に触れ、名前を呼んでも反応はない。かといってものすごくショックを受けているという様子でもない。
なんでいるんですか、という声は、あくまで冷静だった。
しかし直後、びくっと体が跳ねた。
「私の口利きがなければお前はここに入ることもできなかった。そのことをよく考えるんだな」
ぎょっとしてそちらを見るとその人は憤然と出ていくところで、井坂さんは渋い顔をしながらも軽く頷いて一緒に姿を消す。
小野寺に視線を戻すと、さっきとはうって変わって目を見開き、青い顔で唇を震わせている。
知らなかったのか。いや、当たり前か。
「…小野寺」
「高野さんは、」
知ってたんですか。
閉まったドアを凝視したままの問い。
何を、と問い返すまでもなかった。
「……軽くはな」
ひとつ嘘をつけば、それを守るために百の嘘をつくことになる。
たったひとつの嘘でも、ばれればもう何も信じてもらえなくなる。
それがわかっているから、俺はそう答えた。
長い沈黙の後そうですか、と呟かれた声は、聞いている方が辛くなるくらいに苦しくて。
「小野寺…」
「私的なことで抜けてすみませんでした。戻ります」
手を伸ばしかけた俺に気付いたのか、小野寺は弾かれたように立ち上がり、逃げるようにして会議室を出る。
俺は、すぐには追いかけられなかった。
エメ編の周期は大体20日。
校了して波が去っても、次の波が迫るまでは一息つくのがせいぜいなわけで。
「おい小野寺、まだ連絡とれねーのか!!」
「待ってください、とりあえずコールが…あっもしもし小野寺です切らないでくださいヤバいのはわかってるんで!!」
「あ゙あ゙あ゙もうっっなんで毎回毎回こうなのー!!」
「ハイみなさん口より手を動かしましょうねー(にっこり)」
「こんな調子で校了大丈夫か…」
ピンクの乙女編集部は、あっという間に戦場に様変わりする。
正直、小野寺が心配だった。
小野寺出版の社長、すなわち小野寺の父親が丸川に来たあの日以来、もはやどうしようもないくらいそいつは自分の殻に籠ってしまった。
本音らしい本音を一切見せず、必要以上に誰かと関係を築こうとせず、何かあってもその場しのぎなのが丸わかりなくらい上っ面でしか対応しない。
仕事以外の関わりは拒絶する。俺だけじゃなく他のエメ編部員にも。
みんな結局井坂さんの用事を知らないからひたすら戸惑っていたが、周期が山場にかかればそんなこと構ってられない。仕事はするからとりあえずはそれでいいことにしているのだ。もちろんあいつはそれを狙っているんだろう。
俺としてはその作戦に乗ってやるつもりは毛頭なく、でもさすがにこうも余裕がないと結果としてアクションを起こせない。いや、少し二の足を踏んだのが悪かったのだとわかってはいるけど。
「どうもあの二人、血が繋がってないらしいんだよ」
あの後たまたま休憩所で会った時、くれぐれも口外するなと念を押して、井坂さんはそう教えてくれた。
それを聞いて、小野寺がああも人格変わった理由がわかった気がした。
もちろん憶測でしかないが、小野寺はそれを知ってるだろう。そして知った時期は高校時代、俺の前から姿を消した後。だってそれまでは、愛されて育ちましたオーラに一点の曇りもなくて、特に最初はめっちゃむかついたから。
それが俺に遊ばれたと思って回し蹴りして逃げ出して、追い討ちをかけるようにそのことを知ったのだとすれば、今のひねくれまくりにも説明がつく。
あの律には衝撃が大きすぎただろう。
あいつは、本当に純粋だったから。
原因もわかったところで、可能な限り側にいて少なくとも俺のことは誤解だとわからせたいのだが、如何せん時間がない。
もう、好きな本を好きに読んでいられた高校の時のようにはいかない。
でも周りの死体に紛れてあいつががらんどうな目をするのを見て、どんなに反抗されても今度こそべたべたに甘やかしてやろうと決めた。