「うち来い」
校了後、一足先に帰ってきた後タイミングを見計らって電話すると、何コールも待たせやがったそいつは「はあ?」と言った。もちろん覇気はない。ため息と一緒になんとか言葉を吐き出している感じ。
「もうだいぶ無理なんで、反省会なら明日にしてもらえませんか」
「反省会じゃねーよ。労ってやろうってんだ」
「余計に嫌です」
愛想のない声の向こうでかすかに聞こえる鞄を探っているような音、そしてちゃりんという金属音。
残りの仕事を片付けてもう家の前にいるのだと気付いた俺は、つれないそいつを取っ捕まえるべくすぐ外へ出た。
「げったかのさ、うわっちょっ!!」
「げってなんだ、お前のために早めに仕事終わらせてメシ作ってやってたちょーやさしい上司に対して」
「ちょーやさしい上司ならこっちの言い分も聞いてくれたっていいでしょ!」
「じゃあ、一方的に行方不明になったお前を十年一途に思ってた元先輩ってことでいいか」
ぴたりと、小野寺の抵抗が止む。
自分のテリトリーにほいほい入れてやる時点でわかってほしいんだがな、と愚痴りながら強引にリビングに座らせるが、反応はない。
もしやずっとまともなもん食ってなかったからこの手料理のにおいに感動してるのか。
それはないだろうと思いつつも顔を覗きこむ、と。
そいつはものすごい形相で、俺を睨み付けてきた。
「……からかうのもいい加減にしてください」
「だから、からかってねーっつの」
一体何度、同じやりとりをすればいいんだ。
俺はため息をつきかけるが、突如、小野寺が激昂した。
食器の乗った机をバンッと力任せに叩く。
「ッなんなんですか、ほんとに!! 俺はあんたと関わりたくないんですよ、何回言えばわかるんですか!!」
「…小野寺、おい」
「好きでもないのにこっちの気持ちにつけこんで玩んだくせに、よくそんなこと言えますよね!! 確かにあの頃の俺はバカで単純でおめでたいガキでしたけど、今は違う!!
何も期待しないしあんたの言葉を信じるつもりだってない!!」
衝撃だった。
当時の俺は何もかもに冷めていたけど、あの律だからこそ好きになれたのに。
十年経っているとはいえまさか当の本人に、そんなふうに否定されるなんて。
その後は、疲れもあってかなかなか興奮が収まらない小野寺を、俺自身落ち着いてなかったけどなんとか落ち着かせようと努力した。
結果としてそいつは何か食わせる前に泣き疲れてそのまま眠ってしまったが、夢でもひどくうなされていた。
傍にいてあやしているうち俺は完全に寝るタイミングを逸してしまい、今はベッドで寝息をたてている律を起こさないようリビングへ戻った。
手をつけないままの食事はとりあえず朝食べることにして冷蔵庫へ入れ、本棚から懐かしい本を引っ張り出す。
母校の図書館にも置いてあった、恐ろしくマイナーな本。
貸出カードの俺の名前の下にあいつの名前があったことを思い出す。
あいつは本当に、ただただ純粋に、俺を好いてくれていた。
うざいとか、おめでたいやつとか、確かに思ったこともあったけど。
でも、俺は。
白んできた空が徹夜続きの目には辛く、さすがに仮眠をとろうと思い本を閉じる。こんなことができるのも今日が土曜だからだ。校了直後が週末だと本当にありがたい。
ふと目を上げると寝室のドアが開いていて、小野寺が立っていた。
現実でも夢でも散々泣いていたからまぶたが赤い。
珍しくこっちをじっと見ながら佇むそいつに、俺は声をかけようとしたが。
「………せんぱい」
一瞬、思考が停止した。
既に涙声だった。まるで怒られるのがわかっている子供のように。
それでも。
「せんぱい…、」
小さくしゃくりあげるその様子に、ああやっぱり、と思った。
眠りの中で泣きながら繰り返していた言葉。
それがやはり自分を指していたのだとわかり、悲しくなる。
遊びなんかじゃなかった。ましてや玩んでなんかなかった。
俺はあいつと同じ気持ちでいたはずだった。
なのに、現にこいつは、十年経った今も俺を夢に見て泣きじゃくって。
知らないうちにそれほどの傷を負わせてしまっていたんだ。
もしかして離れていた間も、夢を見ていたんだろうか。
その度に泣いていたんだろうか。
それとも、必死に唇を噛んで我慢していた?
「おいで」
声をかけても、そいつは迷子のような表情のまま動かない。助けを求めるように、呪文のようにそれを呟いている。
俺は両手を伸ばして、もう一度呼んだ。
「おいで、律」
不意に呪縛が解けた。
ふらふらと、しかしまっすぐ、こちらへ歩いてくる。
俺はその体を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。
痩せてしまったのはきっと、あの忙しさのせい、だけではないだろう。
「せんぱい…」
弱々しい声は掠れ、遠慮がちにシャツを握ってくる手はすがるようで。
何を望んでいるかはわかっていた。
「好きだ」
だから俺は、懸命に思いを告げる。
「好きだよ、律。遊びなんかじゃなかった。ずっと忘れられなかった。捜してたんだ。俺はちゃんと、お前が好きだから」
あの頃の気持ちを伝えると、小野寺は肩に顔を埋めて泣きじゃくった。
確かに、面と向かって「好きだ」と言ったことはなかった。
だからたった一度、わかりきった問いを鼻で笑ったくらいの過ちで、何もかもが崩れ去ってしまったんだ。
いくら今のお前が好きだと言っても、この状態では何も届きはしないだろう。
だからまずは小野寺のトラウマを書き換えることが先決だ。
完全には無理でも、その傷を和らげてやれるのは、紛れもなく当事者である俺だから。
十年後のこいつに口説き直すのはその後でいい。
色の薄いやわらかな髪を撫でながらそんなことを考えて、ふと気が付くと、律は俺にもたれかかってぐっすり眠っていた。
* * *
よくわからない状態が続いている。
あの日、あの人を「先輩」と呼んでしまった日は、仕事のことや親のこと、ついでにしつこく言い寄ってくるあの人のことでかなり参っていた。学生時代のメンタル的に一番やばかった頃みたいに最悪だった。
でももういい大人のはずなのに、結局は同じようなことでティーンエイジャー並みにいっぱいいっぱいになっている自分が許せなくてそれもまたしんどくて悪循環。
まあちょうど忙しい時期に差し掛かってたからある程度考えずに済んだけど。
でもようやく校了してほっとして、パンクしかけてた頭に隙間ができた瞬間から、考えたくもないことが一気に侵食してきてぐるぐると脳内を渦巻いて。
そんな中で家に連れ込まれてパニックになって子供みたいに喚いて、何か嫌な夢を見て、耐えきれなくてついあの人を昔の呼称で呼んで…という大まかなことしか記憶がない。正直。
ただ確かなのは、高野さんが何も否定的な言葉を言わず、いい大人のくせに泣きじゃくる惨めな俺を受け入れてくれたこと。
強く抱きしめて、「好きだ」と言ってくれたこと。
あれ以来不可抗力で家に二人でいる時、我慢できずに「先輩」と呼ぶと、その人はふっと表情をゆるめて抱きしめて、好きだと言ってくれるようになった。
昔のように、俺を「律」と呼んで。
何かおかしい、歪なことはわかっているけど、どうしてもやめられない。
だってそれはあの頃、大好きだった嵯峨先輩にしてほしかったこと、そのままだから。
悔しいけどそれによって精神的に落ち着いてきていることは否めなかった。
そして近いうち、「先輩」ではなく「高野さん」に向き合わなければいけないことも、漠然とわかっていた。
でも結局、あの人とはすれ違う運命なんだ。
「小野寺くん、今日はいい返事聞けるかな?」
丸川を出たところで灰谷さんに声をかけられ、少しげんなりする。
今日は早く帰りたいんだ。
頑張って終わらせたらうまいもん食わせてやるから来い、と「先輩」が言ってくれたから。
「…何度も言ってますがお断りします。灰谷さんとそういうことは考えられませんので」
付き合ってほしいと言われた。
でも、俺はこの人に好意を持てないとわかってる。
だからきっぱりと頭を下げて彼の横を通り過ぎる。
「やっぱり、高野?」
「…」
「やめときなって。あいつじゃ幸せになれっこない」
「…」
「それに、あいつ婚約者いるよ?」
ああ、この感覚。
ぎゅぅ、と胃が締めつけられ、中のものがぐっとせり上がってくる感じ。
俺はそれに耐えるためにぐっと唇を噛みしめた。
最近噛んでなかったからすぐには血は出ないけど、時間の問題だろう。
「……知ってますよ」
やっぱり、初恋なんか叶わないんだ。
空っぽな気持ちで坂道を上ると、ちょうど高野さんがエントランスから出てきたところだった。
そして後ろには、ふわふわした可愛らしい女のひと。
「大丈夫だよー、一人でタクシー待つくらい。呼んでくれたんでしょ?」
「ダメだ、何時だと思ってる。一緒に待っててやるからとにかくまっすぐ帰れよ」
「お母さんみたいなこと言うね!」
「わかったからそのお母さんにもちゃんと言っとけよ、杏。俺は婚約とかは」
踵を返したりしなかった。
歩調を速めることもゆるめることもせず、まっすぐに二人の脇を抜けてマンションに入る。
無表情に、彼らを視界に入れずに。
「っ小野寺、」
「え? 政宗さん、知り合い?」
馬鹿みたいだ。
もう絶対信じないって、あんなに心に決めたはずなのに。
「律!」
馬鹿だな、本当に。
「はあ? まだあいつの周りうろちょろしてんのかよあの女」
政宗と痴話喧嘩でもしたのか、とたまたま休憩所で鉢合わせた横澤さんに聞かれた。
前は恋敵だと思われてた人だし、まだ多少の気まずさもあってスルーしようと思ったけど「痴話喧嘩」っていう単語にイラッときて、「婚約者がいる人と付き合うわけないでしょ」と言ってしまったんだ。
すると不快感も露にそう吐き捨てるから驚いた。
「…え、お知り合いなんですか?」
「知り合いじゃねーけど、あの女大学にもちょいちょい来てたぞ。政宗はその度に、結婚なんかするつもりないって言ってたんだけどな」
どんだけ執着してんだよ、と暴れグマが眉間にシワを寄せる。
なんでも子供の頃の、親同士の口約束なんだそうだ。つまり彼らは幼なじみ。
それなら結婚してもそれなりにうまくやってけるんじゃないかとぼんやり思う。
「…てか、お前こそなんで知ってんだよ。まさか紹介されたわけじゃないだろ」
「昨日マンションから一緒に出てくるの見ましたよ。それに婚約者いることは高校の時に噂で聞いてたんで」
間が悪かったのだ。
先輩に失恋した直後、俺が先輩と図書室で話しているのを見かけた同級生が、又聞きしたという婚約者の話をしてきて。
逃げ出すように留学して、ようやく気持ちに蓋をして帰ってくると、今度は父親と血の繋がりがないことを知った。
他人の子と知らず養ってきた恩に報いろと言われた。残念ながら他に子どもはいない、だからお前が会社を継いで業績を上げて不動の地位を築いてみせろと。
留学前の俺を知っている人は、なんか変わったね、とどこか戸惑いながら言う。言われる度に腹が立つ。
俺だって、変わりたくて変わったんじゃない。
「ていうか、そういうことだったか。道理で」
紫煙を吐きながら呟く横澤さんに目を向ける。
「…なんですか」
「昨日久しぶりに話したら、あいつやたら凹みまくってたから」
「んなわけないでしょう」
「あるだろ。…お前な、俺が言うのもなんだけど、あんま意固地になってもいいことないぞ」
会った当初はあんなに態度きつかったのに、この人はずいぶんと丸くなった。今の恋人には子どももいるらしいし、きっとそういうことも関係してるんだろう。
俺には無理だ。いろんな意味で。
「とりあえずだな、俺の知ってる限りでは、その婚約者様ってのは親同士の口約束なんだよ。で、政宗ん家は離婚してる。だからあいつがいくら結婚しないっつっても、あっちの家からすりゃちゃんと解消されてないことになるんだろ」
「…」
「政宗の親が杏とやらに直接話せばそれで済むんだろうが、もうどっちも家庭があるらしいし、連絡もほぼしてないみたいだから。遠慮とか今更感とかもあって難しいんだろうな」
あの人の家庭が複雑なのは、俺もなんとなくは知ってる。
でもそれをどうするかは本人次第だ。
俺にはその気はないんだと思えてしまう。
少なくとも、面倒にけりをつけてまで、俺とどうこうというつもりはない。
だって、あれから一度も、二人になって話をしてない。
「あんまり疑ってやるなよ。失礼ってもんだぞ、昔の俺に対してもな」
隠しているつもりがいくらか顔に出ていたのか、横澤さんはそう言うと休憩所を出ていった。