せっかく休日だというのに、俺はいつにないほど緊張していた。
相手は赤の他人ではないけどTシャツジーパンという出で立ちで会いに行く気にはなれず、かといってスーツ着るわけにもいかない。そんなことを何日も考えていたからもうそれだけでだいぶ疲れていた。
でも、ここからが正念場だ。
人通りの多い中を縫うようにして待ち合わせ場所に向かう。
小野寺を見つけたのはそんな時だった。
あっちも気がついたようで視線が合った。
一瞬、お互いその場で停止する。
「…小野寺くん? どうしたの?」
隣の女に声をかけられてはっと我に返った小野寺は、「なんでもない」と言いながら顔を背け、再び反対方向へと歩き出す。
動悸がして、嫌な汗が噴き出す。
俺は急いで二人から背を向け、先を急いだ。
あいつとはちゃんと話をする。
でもそれは、とにかく今日の用事を済ませてからだ。
俺は今しがたの光景を必死に頭から振り払い、混み合う喫茶店へ足早に入った。
メール電話インターホン攻撃でそいつを隣の部屋から引きずり出した俺は、これから飲みに行くぞと宣言した。
もちろん拒否権は一ミリもない。
こちらの剣幕に驚いたらしい小野寺は、横暴だのせっかくの休みになんでだのぶつぶつと言っていたが、結局断らなかった。
そして、電車で向かった先は。
「………………え?」
後ろから間抜けな声がする。
「え、ちょっ高野さん、ここですか? なんか間違ってません?」
「合ってる」
「いやいや、でも、だってここ」
狼狽えまくるそいつを無視し、受付で予約の確認を取ってもらう。
こちらへ、と言われ振り向きもせず歩き出すと、躊躇いながらも後を追ってくる気配がした。
「…飲みに行くって言ったじゃないですか」
「嘘はついてねーだろ?」
ワイングラスを掲げてみせると、小野寺は「いやでも、だからって…」と怒るより困惑した様子で、居心地悪そうに座り直す。
名の知れたホテルの最上階。
心地よいジャズの生演奏がせせらぎみたいに流れていて、真横は全面が夜景、そんなレストラン。
完全に普段着の男二人は確かに多少異質かもしれないが、和やかな雰囲気に流されて誰も気に留めない。
ドレスコードはないし、家族連れも結構多いからそのへんはどうでもいい。
本題は、ここからだ。
「律」
久しぶりに名前を呼ぶと、びくり体を強張らせる。
何を言われても傷つかないよう、身構えるように。
「…………………なんですか」
ああもう、違うっつの。
「渡したいものがある」
「…………それ、部屋じゃ駄目だったんですか」
少女漫画に親しんでいる人間なら、ここで黄色い声のひとつやふたつあってもいいところだ。
でもこいつは少女漫画なんかエメ編に来るまで読んだことなかっただろうし、百本ノックだなんだって勉強してはいるけどまだまだ日が浅い。
さて、どこで気がついてくれるか。
最後の最後まで気付いてくれないことも覚悟したが、意外にも次の第二段階で小野寺は反応を見せた。ぎょっとしたように目が見開かれる。
確かに特徴あるからな。この箱。
「なんだかわかるか」
「……………っい、いえ」
声上擦ってるぞ。
いや、わかってはいるけどそんなわけない、と必死に否定してる思考回路が目に見えるようだった。
唇が震えてる。
何度も何度も噛みしめられたせいで、血の出た痕が消えない唇。
「開けて」
「っいや、あの」
「わかんねーんだろ。開けて」
重ねて催促しても尚、そいつは当惑しきった様子で視線を彷徨わせる。
長い長い沈黙だった。
でも俺が動かないなら自分が動くしかないとわかったのか、ようやく意を決したように手を伸ばした。
慎重に包装紙を剥がすと、立方体の箱をおそるおそる開ける。
「――――――っ、」
硬直。
放っておいたらそのままリアルに石化しそうだったから、俺は「内側見て」と促した。
普通はイニシャルだけみたいだけど、ファーストネームは二人分きっちり彫ってもらった。疑り深いこいつが変なこと考えないように。
それと、もうひとつ。
「…………………あ、の、」
「…まあ、ちょっと直球すぎたかもな」
でもカッコつけて伝わらないよりはずっといい。
それは、律に学んだことだ。
そんなつもりは全然なかったけど、でも当時の俺の態度は律を深く傷つけてしまった。
伝わってほしい人に正しく伝わらなければ何の意味もない。
だから俺も、あの頃のお前みたいに、ありのままを伝えたい。
全部素直に話すから知ってほしい。
そして叶うなら、受け入れてほしい。
「小野寺」
「っ!」
指輪と一緒に握り込むようにその手を包むと、小野寺は驚いたようにこっちを見た。
俺も今気が付いた。
自分の手が、誤魔化しようもないくらい震えてることに。
ゆっくり、深く、息を吸う。
「…俺は、どっちかっていうと言葉の方を信じるタイプだ。物は金さえ出せばいくらでも繕える気がしてな。だからなんとか、自分の言葉だけでお前を口説き落とそうってずっと思ってた」
「……」
「でもたぶん、お前にはそれだけじゃ届かないからな」
俺のことも、親のことも、前いた会社でも、言われたり言われなかったりした言葉のせいで律は傷ついてきた。まっすぐだった性格がこうも歪んでしまうほど。
かといって身体を繋げるとかそういう即物的なことに頼るとまた同じ轍を踏んでしまう気がする。
それで俺は、「証拠」を示すことにした。
形の残らない言葉だけじゃない、はっきりと目に見える「証拠」。
俺が本当に、こいつが好きだという「証拠」を。
「お前が俺を『先輩』って呼ぶのは別に構わない。そうしないと、高校時代に戻らないと、お前が素直に甘えてこられないのはわかってる」
「…」
「でも、俺にとってはもう、あの頃のことは一区切りついてるんだ。確かに十年前、俺がお前を好きだったことは確かだ。だけど再会して、今の俺は今のお前が好きになった。
ひねくれまくってて可愛くねーって思うこともあるけど、根っこにある俺が好きだったお前は何も変わってないからな」
俺の根の部分も要するに変わってないってことなんだろう。
だから求める人間が一緒なんだ。
いや、もしかしたら変わってはいるけど、お互いを補えるようにそれぞれ変わってきたんだろうか。
そうだとしたら、奇跡としか言いようがない。
「過去の傷がまだ癒えてないなら、それでいい。でももしいつか、未来のことを考えられるようになったら、その時はまた俺を入れてほしいんだ」
緊張して強張った指に、ぎゅっと力をこめる。
祈るように、縋るように。
誓うように。
「婚約者の件は、悪かった。お前に会う前からずっと断り続けてて、俺としてはもうとっくにただの幼馴染としか思ってなくて、だから大して意識もしてなくて…。でもこの間あっちがまだその気だってわかってすげー驚いた。
だけど俺の親にいい加減なんとかしてくれって頼み込んで、やっと正式に解消されたから。俺には本当に、お前しかいないから」
だからあの時一緒にいた女でも、他の誰でもなく、俺にしてくれと。
柄にもなく必死に言い募るうち、いつしかそいつは涙を零していた。
「小野寺、」
「……………俺で、あんたはいいんですか」
「…は?」
「っなんで、」
なんで、俺なんですか、なんて。
「……高校の頃、俺がなんでそんなに俺のこと好きなのって聞いたら、お前『話すのに三日はかかる』って言ってたな。覚えてないかもしれないけど」
「――――――――――」
「俺は一生かかる。だから、一生かけて教えてやる。これは、その決意の“証拠”だ」
確かにこれは俺の独断の賜物で押しつけでしかない。
だけどもちろん、受け取らないことだってできる。
この儀式は俺からしても、目に見える“証拠”だ。
こいつが俺を受け入れたという、“証”。
「ほんと、少女漫画ですか、」
感化されすぎ、と呆れきったような声音で叩くのは憎まれ口。
でもそいつは泣きながらも、ようやく、笑顔を見せてくれた。
The Proof Of Love
「………ちなみに、一応言っておきますけど、この間の子は前の会社の同期ですから」
「もうああやって会うなよ」
「…まずは自分が行動示してくださいね(ぷいっ)」
「…(ツンデレも悪くないな)」