「わあ、すごい!!」



 小野寺のでかい声がベランダから空へ響き渡ったのは、休日の午後。

「雨止んだくらいで何騒いでんだ」

 子供か、とつい呆れると、むっとした顔で小野寺が室内の俺を振り返る。



「そうじゃなくて!! 虹が出てるんですっ」
「虹?」



 確かに、ついさっきまでゲリラ豪雨がすごかった。
 それが今は嘘のように止んで、青空まで垣間見えて。
 虹が出ていても不思議じゃない。
 俺はキッチンを離れ、ベランダへ向かう。
 嬉々とした様子でほら!! と小野寺が指差す先。


 広いようで狭い空を裂けるように掛かる、やけにはっきりとした七色。


「でけーな」
「ホントに。珍しいですよね」
「てかあれ二重じゃね?」
「えっ、そうですか? って‥‥‥‥‥‥‥‥あのちょっと、どいてください」

 柵から身を乗り出すようにして、その自然現象を眺める小野寺。
 その手に自分の手を重ねて背中にぴったりくっつくと、そいつは少しこっちに視線をやりながら、
 何が不満なのかテンションの低い声を上げる。

「なんで」
「鬱陶しいです」
「恋人に対してそれはねーだろ」
「外から見えたらどーすんですか!! ていうかお湯噴いてますよ!!」
「‥‥‥‥‥‥チッ」

 ヤカンは小野寺の味方らしい。
 俺はこのタイミングについ舌打ちをしながら、渋々キッチンへ戻る。
 今日はコーヒーじゃなくて、小野寺が友人からもらったというダージリンティー。
 上品な香りが、さっきの雨のせいで少し湿度の高い部屋に満ちる。



「そういえば高野さん、知ってます?」
「なに」
「虹の根本には幸せの詰まった壺があるんですよ」
「へえ」
「子供の頃読んだおとぎ話なんですけど」



 虹は地上に近づくほど薄くなり、両端がどこから伸びるのかはわからない。
 小野寺の後ろ姿は、虹そのものより、その根本部分の方が気になっている様子。
 俺は用意したパンプディングの横にふたつのカップを置きながら、笑みを零した。















「俺、持ってるけど」
「え!!?」



















 がばっ!! と振り返る律。
 ああ、俺がお前の名前呼ぶだけでそれくらいの反応してくれればいいのに。


「まあ、とりあえず来い」


 ソファに腰を下ろして、ぽんぽんと膝を叩く。
 すると小野寺はぎょっと目を見開いて、と思ったらぎゅっと眉間に皺を寄せて、のろのろと部屋に戻ってきた。

 座ったのは、俺の隣。

 膝には来てくれないし俺の方を向いてくれないし、多少足りない感はあるが、これだけでも充分進歩だな。
 色素の薄い髪から覗く耳が、心なしかピンクに染まっている。



「‥‥‥‥‥‥持ってるんですか?」
「ん?」
「幸せの壺」
「ああ。持ってる」



 よっぽど気になるのか、小野寺がちらっと俺を盗み見る。
 やべー、可愛い。
 普段ひねくれてる上にツンツンしてるから、ごくごく稀なそういう甘えた感じの態度がやけに愛しい。
 俺は一発で心臓をやられて、腕も足もそいつに巻き付けてぎゅっと抱きしめる。

「な゛っ、ちょ!! 高野さん!!?」
「んー、小野寺‥‥‥‥」
「ぎゃひっ!? み、耳許で喋らなっ‥‥‥‥って舐めるな!! こら!!」

 小野寺が腕の中でじたばたと暴れる。
 そのどさくさに紛れて俺はそいつの足首を片方掴み、俺をその両足の間に入れて体育座りするような形にした。
 必然的に、向かい合う体勢。
 今度こそ、誤魔化しようのないくらいそいつの顔が真っ赤になる。



























「ちょっ‥‥‥‥‥あの」
「お前だよ」
「へっ?」
「お前が俺の、底なしの幸せの壺」



























 くっつくのが照れくさくて仕方ないのか、尚も身をよじる小野寺に、手当たり次第キスしながら教えてやる。
 するとそいつは、茹で蛸のまま俺をジト目で睨んできた。















「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥あんた、そんなこと言ってて恥ずかしくないんですか」















 疑うのはやめたんだな。
 それだけで俺は充分すぎるくらい嬉しくなる。



「恥ずかしいけど?」
「嘘言わないでください!! 今だってにやけてるし説得力なさすぎですよっ」
「俺にも人並みの羞恥心くらいあるっつーの」
「冗談、」
「でもな。聞いてくれる相手が目の前にいてくれるってのは、それ以上の意味があんだよ」



 わかるだろ、と同意を求める。
 離れていた十年間の痛みを理解出来るのはこいつだけ。
 案の定、花も萎れそうな表情で俯いてしまう。
 その頬を、俺は両手でぎゅむっとつねった。

「笑えよ、律」
「‥‥‥‥‥‥」
「エメ編のヤツらとか横澤といる時も、楽しいとは思う。でも幸せっていう感覚を教えてくれるのは、俺にはお前しかいねーんだよ」


 ぐにぐにと、整った顔の形を変えてみるが、やっぱりいつもの笑顔にはほど遠い。
 どこをどうやって、あんな何度でも惚れ直せる笑みを作るんだろう。



「‥‥‥‥‥‥‥ははろはん」
「なに」
「いはいれふ」
「にしてもよくのびるな」
「はんふりんふはれはいれふ」
「あーそうだな、冷める前に食べるか。せっかく紅茶も淹れたし」



 大きめのガラス容器に作ったパンプディングを皿に取り分け、
 「いたいー」と呟きながら赤くなってしまった頬を掌で押さえる小野寺に渡す。
 機嫌は少しよろしくなさそうだ。
 でもこれは自信作。
 スプーンが現在進行形の初恋相手の口に入る。


「‥‥‥‥‥んーー」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥お前、本当に顔にすぐ出るな」
「なっばっ馬鹿にして!!」
「してねーよ。お前にそんな顔してもらえるなら、作り甲斐があるってもんだな」
「見ないでください!!」
「やだ。見せろ」


 この至近距離で向かい合わせで、小野寺が美味しそうに、俺の作ったパンプディングを食べてる。
 それは取りも直さず俺の幸せなわけで。



「律ー」
「い、いきなり名前で呼ばないでください‥‥‥‥っ」
「俺今、すっげー幸せ」
「‥‥‥‥‥食べてないのに?」
「お前はそれ食べて幸せ感じてくれてればいーの。それとも、」















 食べさせてくれる?















 試しに言ってみると、予想に違わず首まで赤くなる。



「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥高野さん」
「うん」
「それ、俺にとっては羞恥プレイ以外の何者でもないんですが‥‥‥‥‥‥」
「まあそうだろうな」
「あんたはそれで幸せ感じるんですか」
「当たり前だろ」



 これ以上の幸せがあるか。
 些細だろうが日常だろうが、俺にとってはこいつとの時間は全部が大事だ。
 ただその色鮮やかさに少し、輝きがつけばもっといいなというだけのこと。
 でも、



























「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥わかりました」



























 正直、その返事は予想外だった。



























「口開けてください」



























 ‥‥‥‥‥‥‥‥ホントに、お前は。
 俺の思ってもないところから、スナイパー張りに俺の心臓を狙ってくるな。



「‥‥‥‥‥あーん、だろ」
「いらないならいいですよ」
「いります」
「じゃあ大人しく口開けてください」



 差し出されたスプーンを、ぱくりと口に含む。



「やっぱレモン多かったかな」
「そうですか? おいしいですけど」
「お前がそう言うならいーわ」



 その後は、やっぱり恥ずかしいのか俯いたままおやつを黙々と食べる律を眺めながら、おいしい紅茶を飲むだけだった。
 それだけで仕事の疲れもとれてこんなに心があったかくなるなんて、やっぱりすごいよ、お前は。





 例え虹の根本にある幸せの詰まった壺が見つかっても、いらないだろ?

 俺は俺だけの幸せの泉源に、おとぎ話に縋る必要なんかないと証明してみせるように、キスをした。





 お前が俺を、どうしようもなく幸せにしてくれるように。



 俺がお前を、どうしようもないくらい幸せにするから。