酸素ボンベと動のリズム




 何度となく通った道。
 特に変わらない景色。

 だけど俺の足取りは、ものすっっっごく重かった。















 俺の父親が倒れたのは、かれこれ半年前だ。
 変調を来したのが自社のエレベーター内だったこともあって、幸い大事には至らなかった。

 それで何が変わったかと言えば、俺への風当たり。

 温度差はあれど、両親共に俺が会社を継ぐものと思っている節があった。
 父親ももう若くはなく、一刻も早く俺に次期社長として育ってほしかったらしい。
 その一件後、連日電話で「すぐに帰って来い」と代わる代わる言われた。
 日に日にすさまじくなる母親の剣幕にどうしようもなくなった俺は、
 杏ちゃんとの婚約を正式に、完全に解消したら戻ると交換条件を付けた。
 それを二つ返事で飲んで実行するあたり、よっぽど会社の将来を案じてたんだろう。
 その時期はエメ編内がコミックス化とかアニメ化とかですごくばたばたしてて、結局退職したのは二ヶ月後。















 あれから、もう四ヶ月経った。















 なんていうか、新幹線にでも乗ってるような気分だった。
 実感が追いつかないくらいの勢いで、惜しむ暇もなくどんどん景色が流れていってしまって。

 そんな中、少し逆戻りしようなんて思ったのは、多分もう本当に戻ることがないとわかったからで。
 ばたばたしててちゃんと挨拶もしてなかったし、実はこまごまとした荷物を置きっぱなしにしてるから。


 ああ、でも、気まずい。






 誰かに連絡してから来るべきだったああああああ!!!!!























「‥‥‥‥‥‥っし、失礼します‥‥‥‥っっ」























 意を決してエメラルド編集部に入ると、一斉にこっちを向かれて逃亡したくなる。
 み、みんないるし‥‥‥‥っ。
 ていうか、相変わらずすごいピンクだ。久しぶりだからか目が痛い。
 俺の計算が間違ってなければ校了後だから大丈夫なはず‥‥‥‥と思って今日にしたわけだけど、どうやらビンゴだったらしい。

 なんて微妙に現実逃避してた俺を覚醒させたのは、最年少っぽいのに実は最年長の木佐さんだった。





























「律っちゃあああああああん!!!!!」


「ぎゃあ!!?」





























 思いっきりタックルされて、壁に激突。
 あぁ‥‥‥‥‥お星様が‥‥‥‥‥‥三途の川が見える‥‥‥‥‥‥。







「律っちゃん律っちゃん律っちゃん律っちゃん!!! うわあ本物だ本物ーーーー!!!」
「き、木佐さん、ぐるじ‥‥‥‥っっ」
「ほら木佐、確実に締まってるから離して離して。再会が嬉しくて勢い余って殺しちゃったなんて洒落にならないよ」







 その台詞もなんか洒落にならないんですが!!
 俺は慌てて俺を絞め殺そうとする木佐さんと、不穏なことを言う美濃さんから一歩離れる。


 ふと、気がつくと。





 ひどく穏やかな空気に囲まれていた。







「おかえりー、律っちゃん」
「久しぶりだな」
「ホントに。ちょっと痩せた?」
「あ、いえ‥‥‥‥‥、」







 正直。
 今の小野寺出版の上層部は、昔からの父の仕事仲間で、俺が小さい頃遊んでもらってたような人たちで。
 律くんにならここの将来を任せても大丈夫だな、なんて言ってくれるけど。
 世襲だし、逃げるようにして一回は就職したのを辞めてしまったこともあり、好意的に思ってない人もそれなりにいる。
 自分の立場とか力量くらいわかってるから、俺も内心その人達に賛成なわけだけど。
 やっぱり、面と向かって「いくら頑張ったってお前を認めない」なんて言われたら、それなりにショックではあるわけで。


 ああ、やばいな。
 ここ、こんなに居心地よかったっけ。







「突然すみません、えっと、ばたばたしてる時にいなくなったんで、ちゃんと挨拶もしてなかったし。
 とりあえずお世話になったお礼と、ご迷惑おかけしたお詫びに

「「「え?」」」







 気を取り直してその場を取り繕おうとしたのに、三人分の声に遮られて、俺のお菓子を差し出す手が止まる。

 え、何、何?







「‥‥‥‥‥‥‥小野寺、お前戻ってきたわけじゃ、ないのか?」
「えっ? あー、いえ‥‥‥‥‥‥違います、」
「え、違うの!?」
「なんだよぉもーー今すっげー期待したのにいいいい」







 みんながっくりと項垂れ、木佐さんに至ってはまるで癇癪を起こす子供みたいだ。
 ちょっと待て、これって。

 もしかして、俺がここに戻ってくると思ってた?
 それで、あんなに、喜んでくれた?

 胸がじーんと熱くなる。







「あ‥‥‥‥‥あの


「あーあ、律っちゃんほどからかい甲斐のある後輩そうそういないのにー」


「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥はい?」

「ホントだよね、ここまでいじって楽しい子って珍しいよね」
「そうだな‥‥‥‥‥」
「ちょっと聞き捨てならないんですけど!!! なんですか羽鳥さんまで!!!」
「だってさぁ、急に現れたら戻ってきてくれたのかなーって思うじゃん」
「新しいヤツ入ってくるってたった今言ったばっかだろーが」
「お茶目な編集長ジョークかと‥‥‥‥‥」
「どんなだ」



 高野さんは呆れきった様子。
 そっか‥‥‥‥‥‥新しい人、入るんだ。
 俺の場所、本当に、ここにはなくなるんだな。
 ならぐずぐずなんてしてられない。



「あのっこれ、よろしければどうぞ」
「えーなになに? お菓子?」
「律儀だなホントに‥‥‥‥‥」
「いえ、これくらい。あとすみません、俺荷物いっぱい置きっぱなしで。持って帰ります。
 ちょっといろいろやっててもいいですか?」
「いいよ、どうぞ」



 許可をもらって、とりあえず元俺の机へ。
 ‥‥‥‥‥‥‥うん、ここぞとばかりにぬいぐるみ。
 面倒は後回しにして引き出しを開ける。
 必要なものは鞄に詰め込んで、いらないものはあげるか処分。



「ていうか、今日普通に金曜だよね? 小野寺くん、会社は?」
「あー、今日から三日休みもらったんです。引っ越し準備ってことで」
「引っ越すのか? 小野寺出版って、確か本社都内だろ」
「そうなんですけど、帰る余裕ないんですよね。だからもう会社から徒歩五分のマンションに入ることになって」
「へえー‥‥‥‥‥ねえ律っちゃん、今って、役職とかどうなの? とか、聞いていーのかな‥‥‥‥」
「一応平社員ですよ。とはいっても一般の仕事はしてないんですけど‥‥‥‥‥。
 一年以内に専務取締役の、まあ補佐くらいにはなれってことらしくて」
「うわ、すっご!! 立場的には井坂さんとほとんど変わらないってことでしょ!?」
「いやーでも、経営の勉強とか親についてって顔見せとか、そういうのばっかりで。
 編集なんか全然やらせてもらえなくて、それがちょっと辛いですね」



 編集者を含む社員がのびのびと働ける環境を作る。
 ざっくり言ってしまえばそれが社長の業務、なんだと思う。
 でも編集の仕事が好きな俺としては、直接それをできないのは寂しい。
 プロットとかネームとかも、すごく懐かしい響きだ。
 ここにいた時はやっぱり少し文芸が恋しかったけど、小野寺出版に戻った今では、ものすごくエメ編が恋しい。
 なんだかんだ充実して、濃くて、何回も死ぬって思った代わりに達成感も半端無くて。

 居心地、よかったなぁ。



「小野寺くん、それ持って帰ったら?」
「え? このうさぎですか? でも木佐さんのですよね」
「いいよ。あげるー」
「いえ、遠慮しときます‥‥‥‥‥ていうか、こんな大きいぬいぐるみを俺にどうしろと」
「何言ってんの律っちゃん、インテリアに最適じゃないか!!」
「イラッと来た時サンドバッグにするとか」
「‥‥‥‥‥抱き枕とか」
「その台詞を羽鳥さんが言うとは思いませんでしたよ」



 引っ越すから荷物減らさなきゃいけないっていうのにどんないじめだ!!!
 鞄に突撃してくるうさぎを必死に押しのけながらぎゃーぎゃー騒いでしまう。
 でも結局、小さけりゃいいんだろという話で、ティンクルのキーホルダーを受け取った。
 何かひとつもらわないと、数十倍でかいものを持って帰るしかない状況になりそうな予感がしたから。

 大きめの鞄を持ってきたのに、結局ぱんぱんになってしまった。
 さて帰るか、とそれを肩に掛けた時、にじり寄ってくる二つの影に気付いた。







「律っちゃあん、行っちゃうの〜〜?」
「俺たちが愛の抱擁をプレゼントしてあげるよーー」
「関節鳴らしながら近づいてこないでください!!!
 ありがとうございましたお世話になりましたすごく楽しかったです、お仕事中すみませんでした失礼しますっ!!!」







 一息に言い切って、俺は文字通り逃走した。
 鞄は重いし嵩張るしで走りづらいことこの上ないけど、駅まで足を止めなかった。



 大丈夫。

 みんな普段通りに振る舞ってくれた。
 伝えたかった感謝も伝えた。
 あそこで俺は、ただ等身大の“小野寺律”だった。
 上手く出来なければ怒られ、こき使われ、特別視されることも僻まれることもなくて。
 俺にとっては、ごく自然に息が出来るところ所だった。



 束の間の新鮮な空気を吸って、俺はまた、底知れぬ海へ潜る。

 きっともう戻ることのない場所を、ただ想いながら。























 ピンポーン











 新しい家の鍵をティンクルのキーホルダーにつけて弄んでいると、チャイムが鳴った。
 ぼんやりしていた俺は条件反射で立ち上がり、段ボールにぶつかりながら玄関まで行く。


 我に返ったのは、ドアを開けてからだった。















「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥た、かのさん」
「ん」
「え? なんですか‥‥‥‥‥って、あっっつ!!!」















 なんかデジャビュ!!!

 手渡された熱々の焼き芋を取り落としそうになった俺は、大慌てでリビングへ戻り、机の上に放り出した。
 腕また赤くなってるし!!!







「あ、熱かった‥‥‥‥‥ちょっと高野さん!!! 何す――――――――」



























 世界が、反転した。























 真っ先にごつんと鈍い音が聞こえてから、後頭部がじんじんし始める。
 火花散った、今‥‥‥‥‥











「ぃっだ!!!」
「うるせえ」
「なっなんなんですか、自分がいきなりっ」











 押し倒してきたんでしょうが、と。
 文句を紡ごうと口は、途中で塞がれていた。



 俺は頭の痛みも相まって状況が咄嗟に把握できず、目を白黒させる。
 口内を隅々まで舐る、やわらかくて熱い舌。
 服の中、素肌を這い始める手。
 さらにはズボンのジッパーまでが‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥って、ちょ、ちょっと待て!!!!!!







「たっ高野さん!!! 何してんですかあんた!!!」







 ‥‥‥‥‥‥‥あれ?







「律‥‥‥‥」







 俺、いつもどうやって抵抗してたっけ。







「やっ‥‥‥‥やだ、やめ、たかのさっ」







 俺、いつもどんな悪口雑言浴びせてたっけ。







「律、」



















 俺、なんであんなに拒絶してたんだっけ?



















「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥っ高野さん、」











 封印なんかとっくに解けてると気付いてしまえば、呆気なかった。