さよならもなく別れた。
あれで終わりだろうと思った。
充分だと思った。
この暗い海原の中でも、ささやかな記憶だけで息継ぎができるから。
俺はまだ気付いてなかったんだ。
沈んでいく俺を追いかける、ひとつの影に。
「‥‥‥‥散歩ですか専務取締役」
「‥‥‥‥‥‥‥あんたも出るだろ同じ会議」
俺はあれよあれよという間に専務取締役まで引き上げられた。
というか「一年以内に専務取締役の補佐」っていう話は俺の勘違いで、正しくは「一年以内に補佐付の専務取締役」だったらしい。
俺の父親を含む重役達、実は会社を潰したいんじゃないだろうか。
そして。
それとほぼ時を同じくして、この人は小野寺出版に単身で乗り込んできた。
月刊エメラルドを数ヶ月連続で全国書店少女漫画部門一位の座に君臨させてから。
高野政宗の名は編集者の中では本当に有名で、
もちろん多少の僻みはあれど、誰にも「たかが少女漫画の編集」なんて言わせない力があった。
ただ小野寺出版に来てからのこの人は、編集に全く執着してない。
今は課長なんて役職だけど、怒濤の勢いで業績を上げてる。
真っ直ぐに上を目指してる。
多分、俺のすぐ近くを。
「‥‥‥‥‥‥高野」
「なんでしょう」
「また渋柿が届いて困ってるんだけど」
同じ会議室へ向かいながら俺が言うと、その人は苦笑を浮かべる。
「またですか」
「‥‥‥‥‥また」
「何個?」
「前と同じくらい」
「そーですか。じゃあ今日、そっちの部屋行きます」
「ん」
俺とこの人が丸川書店で上司と部下だったことはみんな知ってる。
今は立場が逆転してるけど、俺たちがこうやって話してても別に違和感はないだろう。
でもプライベートのことだし、なんとなく気まずくてぼそぼそ喋ってたら、突然隣から不穏な空気を感じて。
やばい、と思った瞬間。
「待ってるから、なるべく早く帰ってこいよ、律」
耳許で低く甘く囁かれて、一気に顔に血が上った。
それを見て、確信犯がぶっと噴き出す。
「くくっ、真っ赤。相変わらずいい反応だな」
「〜〜〜〜〜〜〜っっ、敬語!!!」
「あーはいはい」
会議なんかさぼって帰りてぇなーなんて大きい声で言うその人のふくらはぎを、俺は思いっきり蹴ってやった。
1001、高野。
1002、小野寺。
今日帰るのは、かなり荷物の減った俺の部屋。
パジャマ一着くらい残してあったかな。
もしかしたら隣に取りに行かなきゃいけないかも。
疲れた頭でそんなことを考えながら、俺はポケットから、ふたつの鍵が付いたティンクルのキーホルダーを取り出す。
でも、それを鍵穴に差し込む前にドアが開いて、中へと引き込まれた。
水底でも銀河の果てでも、俺はなんの不自由もなく息が出来る。
あなたがいてくれるから。