SHALL WE





「もう嫌だ‥‥‥‥‥‥‥‥‥」



 小野寺律、15歳。

 人生最大の自己嫌悪の真っ最中です。



















 そもそもの始まりが、昨日の夜。
 仕事帰りの父親が一枚のチケットを俺に差し出してきた。

 知り合いにもらったというそれは、結構有名な水族館のペア無料招待券。



『本もいいが、たまには出かけなさい。休みに友達と行ってくるといい』



 出かける。

 ペア。

 二つの単語が重なってふと脳内に浮かんできたのは、数時間前まで一緒にいた人。

 まさかそれが見えたわけはない‥‥‥‥と思うんだけど、絶妙のタイミングで父親は「ああそうだ」と声を上げた。



『この間、家に泊めてもらった先輩がいるだろう。その人を誘ったらどうだ』



 誘う。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥俺が!!!!??

 いや無理に決まってるだろ!!! と言おうとしたが、その時既に父はリビングへ行ってしまっていた。
 残ったのは、凍り付いている俺と、チケット。




















「あぁもう‥‥‥‥‥‥どうしよう‥‥‥‥‥‥」







 確かに俺はこの間、一世一代の告白をした。
 したけど、あれはパニックに陥った末の勢いだった。
 言うつもりなんかなかった。
 それ以上に、オッケーされるなんて思ってもなかったけど。
 だからあの時の潔さはどうしたーー!!! と自分自身を叱咤しようとしても、無意味。



「はぁぁ‥‥‥‥‥‥」



 不幸中の幸いは、俺の挙動不審がいつものことで、先輩が気にしてないってことか。
 ちなみに今先輩は、読み終わった本を返すついでに次の本を探しに行って不在。
 正直助かった。
 言うタイミングを探りつつ勇気をかき集めるあの状態が放課後中続いていたら、いつもと違う意味で心臓が保たなかった。


 俺は視線を真下に落とす。
 机の下に隠すようにしていた両手には、あのチケット。
 緊張で汗ばんでる手で握りしめてしまったからくしゃくしゃだ。
 もしかして万が一、先輩を誘えたとしても、もう使えないんじゃないかこれ‥‥‥‥。
 そう思うと自分がつくづく嫌になって、机に頬を載せる。



「はぁ‥‥‥‥」



 ため息つくと幸せが逃げるってよく言うけど、これを体内に入れっぱなしの方が体に悪いんじゃないかな。
 だから俺はまた、深々と息を吐きだす。
 それでほんの少し気持ちが軽くなった気がして、日差しを遮るように目を閉じた。



















「おい、律」
「んん‥‥‥‥‥」
「律」



 さっきから名前を呼ばれてる。
 まだ聞き慣れていない声。
 でもその人は根気強く俺を呼ぶ。
 俺はとりあえず生返事を繰り返すけど、意識の半分はまだ夢の中。
 すると不意に、頭が重くなって、軽く撫で回される。
 それがひどく気持ちよくて逆に眠りが深くなりかけた、時。





























「律」





























 耳に。
 やわらかいものが触れて。
 鼓膜を直接揺らされて。
 風を、というか息を、流し込まれて。



 俺が一瞬で覚醒したのは言うまでもない。
 悲鳴を上げなかったのは奇跡的だけど、その理由は単純だったりする。
 驚きすぎて声なんか出なかった。
 だって瞼を持ち上げると、ぼやけてしまいそうなほどの至近距離に、























「やっと起きたか」

「!!!!!!????」























 俺は咄嗟にずざざざーーっと椅子ごと後退った。
 こ、ここでひっくり返らなかったのってすごくないか。
 いやそれより‥‥‥‥‥

 耳が片方だけ、異常に熱い。
 火でも噴いてないだろうなと恐る恐る触っていると、
 机越しに身を乗り出していた先輩が再び椅子に腰を下ろしながら「何してんの?」と聞いてくる。

 ‥‥‥‥‥‥ていうか、あれ?



「嵯峨、先輩? いつの間に‥‥‥‥‥」
「いつの間にって何。外見てみろ」



 つい、と窓の方向を指され、つられてそっちに目をやると。

 夕焼けが、闇に呑まれ始めていた。



「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥え?」
「お前一時間以上寝てたぞ」
「ええっ!?」



 慌てて壁掛け時計を見る、と。
 確かに一時間‥‥‥‥‥いや、下手すると二時間近く経ってる。
 そ、そりゃあ昨日は、なんて言って先輩を誘おうか考えてたらどきどきして眠れなくて布団の中で悶えまくって、
 やっと寝付けた時には空が白んでたけど。
 だからってここまで寝るか俺!!!
 せっかく先輩といられる時間を自ら削ってどうする!!!
 再び果てしない自己嫌悪に陥る俺の思考を、知って知らずか嵯峨先輩に遮られた。







「なあ、律」
「っは、はい!?」
「ここって、確かそんな遠くないよな?」







 差し出されたのは、見覚えのあるチケット。
 水族館のペア無料招待券。
 ‥‥‥‥‥‥って、あれ?
 なんでこんなにくしゃくしゃなの?
 ていうか俺が持ってたチケットは?



「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥あ、あの、先輩」
「なに」
「これ、どうしたんですか‥‥‥‥?」
「拾った」
「ど、どこで」
「このへん。床に落ちてた」



 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ということは、これ俺のじゃん!!!!
 寝てる間に手放しちゃったのか!?
 我ながら間抜けにも程がある‥‥‥‥!!!
 どうやらそれにより持ち主が変わってしまったらしいチケットを、俺は凝視するしかない。



「た‥‥‥‥多分そんなに、遠くないと‥‥‥‥‥思いますけど‥‥‥‥‥」
「だよな」



 ど、どうしよう。
 これ俺のなんですって言っていいのか?
 それともこのまま返した方がいいのか?

 予想外の事態に、俺はひたすら困惑した。
 俺は、ただ。























 先輩と一緒に行きたかっただけなのに。





























「一緒に行くか?」





























 思ったのは俺。
 口にしたのは嵯峨先輩。
 言おうか言うまいか逡巡し続けた台詞が、外部からの音として、耳から脳へさらりと届く。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥え?
 ちょっと待て。







「‥‥‥‥‥‥えっと‥‥‥‥‥それは、先輩も行くってこと、ですか?」
「俺が誘ってんだから行くだろ。まあお前が行くなら、だけど」







 俺が行くなら?


 俺が行くなら、先輩も‥‥‥‥‥‥‥‥一緒に、







「い、いいいいいいいきます!!!!」
「ならいつ行く? 俺別に予定ないし、今週の土曜か日曜でもいーけど」
「え、えっと、じゃあ土曜日‥‥‥‥‥っ!!」
「時間はどーする」







 そんな感じで、予定がとんとん拍子で決まっていく。
 司書の先生に「下校時刻だから」と図書室を追い出されても、俺はぽわぽわして夢見心地のままだった。
 せ、先輩と休日に出かけられる‥‥‥‥っっ!!!
 しかも俺からは誘えなかったけど、先輩が、先輩の方から、俺を誘ってくれた!!!
 嬉しくて嬉しくて浮き足立ってしまって、階段を踏み外しそうになったりアスファルトの些細な出っ張りでこけたりしそうになる。
 その度に呆れ顔をしながらも、先輩は俺を助けてくれた。



「大丈夫かよ。しっかり歩け」
「うぅ、はい、すみません‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥お前、さっき決めた待ち合わせ場所とか時間とか、ちゃんと覚えてるだろうな」
「お、覚えてますよ!!」
「ならいーけど。来ないとかやめろよ。一応初デートだし」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥へ?」



 でーと。




 ‥‥‥‥‥‥‥デート?





























 ―――――――――――――――――――デート!!!!??





























「ぅえ!!? はっ、え、あの、せんぱ‥‥‥‥‥‥っっ!!?」
「そういやさ、お前土曜がいいって言ったの、わざと?」
「わ、わざ‥‥‥‥‥?」


 予想外の単語に完全にパニックとなった俺は、その言葉の意味がよくわからず立ち尽くす。
 すると少し先を歩いていた先輩は、振り返ると同時にふっと目を細める。





























「日曜も一緒にいたいから俺ん家泊めて、ってことだろ?」





























 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥なんでそうなる?







 否定しようとした俺は、なんて言えばいいのかわからなくて、開いた口を閉じる。
 でもこのままじゃ先輩の台詞を肯定してるのと同じだと気付いて、また慌てて弁解しようとしたけど、
 頭が真っ白で何も浮かばないから、また開いた口を閉じる。
 そしたら先輩は、突然横を向いて噴き出すと、笑いを噛み殺しながらこっちに来て俺の腕を掴んだ。



「ほら。帰るぞ」



 引っ張られるまま足を進めていると、じわじわと頬が熱くなってくる。
 刻一刻と暗くなる住宅街には同じ学校の生徒どころか近所の住人もいないし、
 先輩が俺の手を握ってようと俺が真っ赤になってようと気にする人は誰もいない。
 でも、恥ずかしいものは恥ずかしいんだ。
 先輩ってたぶん慣れてるんだよな‥‥‥‥‥こういうこと自然にしちゃうし。
 いや、ただ俺が意識しすぎて変なだけなのか?
 だけど丸三年片思いし続けてきた人にあんなこと言われたりこんなことされたら、普通冷静でなんかいられませんよね!!?

 俺の脳内がぐるぐると現実逃避という名の自己防衛に走っている間に、俺たちは分かれ道に来ていた。
 先輩の家はここを真っ直ぐだけど、俺は右に曲がる。
 立ち止まった先輩は俺を覗き込むと、目を細めた。



「じゃあな、律」
「は、はい‥‥‥‥‥」
「ぼーっとしてたら事故るぞ。ちゃんと気をつけて帰れよ」



 俺の前髪を軽く払うと、先輩は俺に背中を向けて、ゆっくりと歩いていった。
 先輩に握られていた手をもう一方の手で無意識に握りしめながら、俺はしばらく根が生えたようにその場から動けなかった。



 今日は木曜日。
 こんな興奮状態で眠れるわけがない。

 明日は金曜日。
 “デート”前日に眠れるわけがない。

 そして明後日は、土曜日。











「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥寝不足決定だな‥‥‥‥‥」











 とりあえず明日、先輩に待ち合わせ場所とかもう一回確認した方がいいかもしれない‥‥‥‥‥‥そしてちゃんとメモもしとこう。
 俺はそう思った。