「おい、律」
「んー‥‥‥‥」
「りーつ。昼ご飯」
「んー‥‥‥‥」
さっきから呼んでるのに、こいつときたら生返事ばかり。
俺もさすがに我慢の限界だ。
「律」
そいつが行儀良く座るソファに、わざとどかっと腰を下ろし、足と腕で一回り小さい体を抱き寄せる。
でもその大きな目は、今は本を読むためだけに存在するらしい。
言葉の羅列から一瞬たりとも目を逸らさない。
そんなに睨みつけなくても文字は逃げていったりしねーよ。
「律」
「ちょっと待ってくださいよ」
やっと喋った。
でも、それだけだった。
確かにその本は面白い。勧めたのは俺。
こいつが無類のハードカバー好きなのも知ってる。
だけどまさか、この場でこんなにも集中するなんて思わないだろ、普通。
恋人がこんな近くにいるっていうのに。
「‥‥‥‥律。お前、本と俺と、どっちが好きなわけ」
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥待てども待てども、ノーコメント。
この扱いってどうなの。
十年以上すれ違って、やっとまた付き合い始めたってのに。
律の真剣な横顔。
仕事中とはまた少し違う顔だ。
そして、じろじろと眺めても、俺の視線になんか気付いてないみたいにうんともすんとも言わない。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ああ、もう。
「っあ、?」
頬を包んで無理矢理こっちを向かせて、キスをする。
舌を入れると、意外にも律は乗ってきた。
ソファの上で半ば圧し掛かるような格好で、甘い甘いディープキスに耽る。
俺は思う存分律を味わい、満足して解放した。
が。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥おい織田律」
「小野寺です」
「この本はなんだ」
「面白いです」
律の顔があるはずの場所に、例の本。
こいつ、俺が離れた途端、間に本をかざしてまた読み始めやがった。
いやいや有り得ないだろとそれを掴んで引っぺがそうとするが、律も応戦するように手に力を入れ、
みしりと背表紙が悲鳴を上げたので断念。
律はといえば暢気にまたページを捲っている。
自分の本じゃないと思って‥‥‥‥‥
いや、俺が乱暴に扱えないってわかってるからか。確信犯か。
「おい律」
「うるさいです」
「律律律律律」
「あんた今いくつですか。大人しく男らしく待ってたらどうですか」
「お前は俺の恋人だろ」
「あと十ページもありませんって」
「お前俺のこと好きなんだろ」
「好きですよ」
その返事は予想外だった。
こいつが俺を好きってことは知ってるが、このタイミングでそんなあっさり言うと思わなかったから。
つい一瞬詰まると、律は少し本をずらして目を覗かせる。
大きな瞳が、にやりと笑った。
「人間の中では、ですけど」
おい、ちょっと待てこら。
「どういう意味だ」
「言ったとおりです」
「俺より本が大事だってのか」
「今俺は本を読むために存在してるんです」
「俺に愛されるための間違いだろ」
「さあ。それは俺が決めることですから」
目はすぐ見えなくなり、またページを捲る音。
こいつ喋りながらでも読めるのか、ある意味すげーな。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥というか、裏を返せば、俺との会話に集中してないってことか?
「律、飯冷める」
「三度の飯より本です」
「俺の手料理より?」
「高野さんの手料理は逃げませんから」
「本だって逃げねーよ。そして冷めない」
「この高揚感が冷めちゃうでしょ。いいとこなのに」
くそ、この野郎。
明日のデート考えないで今夜啼かせまくるぞ。
「‥‥‥‥‥‥‥‥愛想のない恋人だな」
ぼそっと心の声が漏れる。
するとまた、俺の大好きな目が現れた。
そして、愛おしい声が発した台詞は。
「素直じゃなくてひねくれててあんたより本の方が大事で愛想もない俺が嫌がってるのに、
好きだ好きだ言いまくって十年前からお前だけだって口説き倒して恋人にしたのは一体どこの誰ですか」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「わかったら黙っててください」
結局俺たちが昼食を取ったのは、それから三十分後だった。
律は本を読み進めてたはずなのにたまに戻ったりして、予想以上に時間がかかったためだ。
その間中ずっと、俺は律の横で待ちぼうけ。
まあ冷め切った諸々をあたため直して出してやると、
俺の機嫌を取る意図もなく素で「やっぱりおいしいですね」って言ってくれるから、少し持ち直したけど。
もう絶対こいつに本なんか薦めてやらない、と俺は心に固く誓った。
それは立派な浮気です