「嵯峨先輩?」


 今日はあんまり、律と顔を合わせたくなかった。
 だからなるべく視線を逸らしながら、いつもの席に鞄を置いて、本を探す名目で書架の迷路を彷徨っていたのに。

 律が俺を追ってきた。




「どうかしたんですか?」




 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥やっぱりばれたか。


 げんなりすると同時に、どうしようもないくらいの安堵を感じて、俺はようやく悟った。
 ここに来た時点で、俺は期待していたんだ。
 律は、律だけは、気付いてくれるんじゃないかって。


 別に特別なことが起きた訳じゃない。
 昨日帰ったら両親が家にいて、言い合いをしてたなんて、いつものことだ。

 なのに俺は、無性に泣きたくなった。
 虚しくて、寂しくて、ずっと部屋にソラ太といたけれど。

 俺は誰かに、











 お前に、











 傍にいてほしくて。



「‥‥‥‥‥‥‥‥律、」
「はい」
「今から家、来てくれる?」
「はい」



 俺の我が儘に付き合わせようっていうのに、律は嬉しそうな笑顔で頷く。
 お前は、俺が好きだから。
 役に立てるって喜んでるんだろうな。
 裏も表もないお前を、俺は疑わなくて済む。
 お前のやさしさに、躊躇いなく甘えることができる。


「律」
「はい」
「ちょっと、抱きしめさせて」


 言うと、さすがに少し驚いた顔をする。
 でも黙って、俺にもう一歩近づいて、寄り添ってくれるから。
 俺は我慢できずにその肩に顔を預けて、一粒だけ、涙を零した。



















「律っちゃああああんコピーおねがあああああい!!」
「ああああはいっちょっと待ってください!! ってぎゃあああ!!!」
「小野寺くん、ない!! このタイミングでそれはない!!!」
「すっすみません美濃さ」
「小野寺、印刷所」
「うわっマジですか!!! 無理です無理です退職しましたって切ってください羽鳥さんお願いします!!!」
「オイコラ小野寺ーーーーーー!!!!」
「は、はいっっごめんなさい!!!」



 気付かないわけがない。
 よりによってこれから忙しくなるって頃に、小野寺がおかしくなった。
 顔は引き攣って、体も強張って、やることなすことしくじってばかり。
 落ち着けと言ったところで「落ち着いてます!!」と怒鳴ってくるからどうしようもない。
 一体何に焦ってるんだ。















 小野寺が五分おきに鳴り響く電話の合間に「ちょっとトイレ行ってきます‥‥‥‥」とふらりと席を立った。
 少し間を置いてから跡を追う。
 中に入ると、案の定。
 律は洗面台に手だけついて、その場にしゃがみこんでいた。




「小野寺」




 声を掛けると、のろのろと顔がこっちを向く。
 それがあまりに無表情で、しかも焦点も合ってないようで、少し驚いた。


「‥‥‥‥‥‥‥た、かの‥‥‥‥‥さん?」
「どうした?」


 聞いても、それに対する返事はない。
 小野寺はふらりと立ち上がった。

「もしかしてまた電話、来てました? 印刷所から‥‥‥‥」
「あ? ああ」
「すみませ‥‥‥‥‥‥‥戻ります、」

 いや、無理だろ。
 足下が覚束ない状態で俺の脇を通り過ぎようとするのを、俺は当然捕まえた。
 引き戻して、抱きしめる。

「‥‥‥‥‥‥‥‥あの」
「なに」
「離してください。印刷所‥‥‥‥‥」
「このまま行ったって言い負かされて更に落ち込むのがオチだぞ」

 反論はなかった。
 多分自分でもわかってるんだろう。
 それでも胸を押し返して俺から逃れようとするから、もっと強い力で抱き込んでやる。
 いつも以上に弱い抵抗。
 まるでこいつの精神状態を示すように。

「っあの、たかのさ」
「ずっとなんかこうしてらんねーよ。何もかもが切羽詰まってんのに」
「だったらっ」
「だから大人しく肩の力抜け。少し黙ってろ」

 横暴だ、意味がわからないと、腕の中で小野寺が反発する。
 でも結局敵わないとわかったのか、割とすぐ大人しくなって。
 やがて、小さな嗚咽が聞こえ始めた。


 全く、本当に不器用なヤツ。
 俺の肩に顔を埋めるそいつの頭を、俺はゆっくり撫でてやる。

「何あった」
「別に、何もな
「さっさと吐け。周期終わるまで酒用意してる暇ねーんだよ」

 力なく笑いながら否定しようとするのを、俺はぴしゃりと遮る。


 乱暴なやり方だってことくらいわかってる。
 俺は、十年前の律のようにはなれない。
 社会人になって時間に追われてるってのもあるし、こいつが俺から離れられなくなればいいっていう下心がどうしてもある。
 あの時のこいつみたいに、真っ白な気持ちで傍にいてやることはできない、けど。

 それでも、無理にでも吐き出させて、弱ったお前を支えてやる覚悟はある。

 俺が引く気がないってわかったのか、腕の中で小さなため息が聞こえる。











「‥‥‥‥‥‥‥‥‥久しぶりに、父と電話で話しました。それだけです」











 ああ、なるほどな。
 後は大体見当がついた。
 また七光りとか、親の権力に対する自分の小ささとか、そんなんで落ち込んでんのか。
 心底呆れたけど、口には出さない。
 こいつは自分を卑下するあまり、自信の欠片も持てずにいる。
 そのひたむきな頑張りは、俺だけじゃなくみんなが認めてるのに。
 どうにかしたいのは山々だけど、根が深すぎて今ここで吹っ切れさせることは出来ない。

 駄目だ、やっぱり酒か。
 それとも抱き潰すくらい愛しまくってやるか?
 となれば、これからやるべき事は、ひとつ。





「お前これから、終電までに死ぬ気で仕事一段落させろ」
「‥‥‥‥え?」
「俺もなんとかする。今日は帰るぞ」
「は? いやいや無理、絶対無理です、何言ってんですか」
「へえ、何? 俺は確実にやるけど、お前は出来ないって?」
「な゛っ」





 かなり厳しいことくらい、俺だってわかってる。
 それこそ死ぬ気にならなきゃ無理だ。
 でもこう言えば、



















「あ、あんたに出来て俺に出来ないわけないでしょ!!」



















 そうやってすぐ挑発に乗ってしまうところも、その後すぐ自己嫌悪に陥って凹むのも、俺はこいつらしくて好きだ。
 もちろん、口にしてしまった以上、なんとかしてこなすだろうところも。



「じゃあ、そういうことで。戻るぞ」
「え、あ‥‥‥‥‥‥でも俺っ、」



 表情は幸い、いつもの小野寺に戻ってる。
 でもコックを失くした蛇口みたいに、涙だけが零れ続けている。
 困惑した様子のそいつの、なめらかな手の甲を濡らす水滴。

 どんな味がするんだろう、

 俺はそう思うと同時に、もう一度そいつを引き寄せていた。



























「ッ‥‥‥‥!!?」



























 頬を伝い落ちていくそれを、顎の辺りから丁寧に舐め上げて、目尻に軽く吸い付く。
 反対も同様に。
 小野寺は一瞬びくっと肩を震わせたきり、凍り付いている。
 なんか、懐かしい表情。
 俺はつい、唇がゆるめる。
 しょっぱさを口内に感じながら。





「止まったな」





 すると、呆けていた小野寺は、みるみるうちに耳まで真っ赤にして。















「っお、お先戻りますっっ!!!」















 え、その顔で?


 せめて火照り冷ませばって言おうとしたけど、俺を突き飛ばしたそいつは脱兎の如くトイレを飛び出していってしまった。
 確実に木佐あたりに突っ込まれるぞ、勇気あるな。
 と思ったが、よく考えてみれば今は皆が皆死んでいるんだった。
 自分の仕事に集中するので精一杯のはず。
 命拾いしたなあいつ。



「‥‥‥‥‥‥俺も戻るか」



 お前が素直に甘えられないっていうなら、俺の方からべたべたに甘やかしてやる。
 家帰ったら覚悟しとけ。
 その代わり、仕事中は下手にやさしくなんかしねーからな。
 俺は軽く息を吐いて、頭を仕事モードに切り替えた。






すいー






(でも客観的に見れば、やっぱり俺は、小野寺には甘いんだろうな)