Take Your arks.




「‥‥‥‥‥‥‥こんなとこにあったんだ」



 落ち込んだ気持ちを変えたくて、久しぶりに手に取ったのは、随分前に買った本。
 夢中になって読んでたら、ちょうど真ん中あたりに、白い紙が挟まっていた。

 ノートの切れ端。

 走り書きされているのは、数字と、アルファベットの羅列。















「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥先輩‥‥‥‥‥‥」















 呟いた途端、心臓が軋んだ。























 俺の両親が離婚したのは、高校一年の夏。
 春にはずっとずっと好きだった二つ上の先輩に告白して、予想外なことに受け入れてもらえて、
 毎日短時間でも先輩の傍にいられて挙動不審になるくらい嬉しくて。

 そんな幸せなタイミングで、俺はどん底に突き落とされた。
 離婚が寝耳に水だった、だけじゃない。



















「‥‥‥‥‥‥‥‥引っ越し?」



















 唐突な話に、先輩もさすがに驚いたみたいだった。
 やっと嗚咽が落ち着いてきた俺は、ぐすぐす鼻を啜りながら頷くしかない。



「それって、いつ」
「明日‥‥‥‥‥」
「は!? マジかよ」
「まじ、です」



 冗談であってほしかった、こんなこと。
 だから何度も何度も母親に確認した。
 答えは、変わらなかったけど。



「明日、母親の実家に行って、そのまま、転校っていう形になるらしくて」
「‥‥‥‥‥」
「今日中に荷造りとか全部しなきゃいけなくて、だから、」



















 先輩に会えるのは、今日が、最後。



















 そんな言葉、口に出せるわけがなくて、代わりにまた涙が溢れてくる。
 奇跡以外の何者でもない、でも確かに積み重なる大切な時間。
 まさかそれが、よりによってこっちの都合で突然終わりを告げるなんて、思ってもみなかった。

 俺たちは、またゼロに戻るんだ。
 いや、同じ空間にもいられなくなるなら、マイナスどころじゃないかも。



「‥‥‥‥律」
「っひ、く‥‥‥‥うぅ‥‥‥‥‥っっ」
「泣くな」
「‥‥‥‥‥‥ごめ、なさ」



 嫌われたくない。
 せめて、このままで離れたい。
 引っ越さなければもっと付き合えてたはずだって、少なくとも俺は先輩に嫌われたわけじゃなかったって、
 自分を慰めることができるから。
 だからごしごし目元を擦って、必死になって気持ちを落ち着かせようとする。

 止まれ。
 頼むから、止まってくれ。

 拭いたそばから零れ落ちてくる涙に、焦りだけが募って。
 呆れられるのが怖くて、もう一度謝ろうとした時。











 先輩にぐっと頭を引き寄せられ、抱きしめられた。











 先輩のにおいと体温と、鼓動。
 いきなりのことに、反射的に体が強張る。



「‥‥‥‥‥‥‥‥せ、んぱ‥‥‥‥‥?」
「‥‥‥‥悪かった」
「え、」
「泣いていいから、擦るな。腫れるぞ」



 家来る前も泣いてたんだろ、と図星を指される。
 確かに出がけ、少し赤いかなと思ったけど、誰かにばれるほどじゃなかったはずなのに。
 驚きで、結局涙はすぐ止まった。

 先輩は、俺の背中を撫でてくれている。
 大きい手。
 やさしく触れられて嬉しさは変わらないのに、今はそれと同じくらい切なくて悲しくて、苦しくなる。



 先輩の肩越し、ふと目に入った時計に、一瞬心臓が止まった。
 今朝になって離婚と引っ越しのことを聞いた俺は、学校にも行けずずっと準備をしていた。
 クラスメートに挨拶できなかったのも心残りだったけど、
 先輩にだけはどうしても会いたくて、母親に無理を言って手伝いを放り出してきた。

 一時間、という制限付きで。



「先輩‥‥‥‥‥‥‥あの、俺‥‥‥‥‥‥」



 このままいたら帰れなくなる。
 名残惜しすぎてまた泣いてしまう。
 俺は先輩の胸を押し返して、居心地のいい腕の中から抜け出した。
 もう、部屋を飛び出して行ってしまおうかとも思ったけど。











「律」











 俺の思考に気付いたのか、名前を呼ばれて止められた。
 なんだろうと思っていると、先輩は鞄からノートを取り出して携帯を見ながら何か書き、それを破って俺に差し出した。

 数字と、アルファベットの羅列。







「俺の携帯の番号とメアド」
「え、」
「お前携帯持ってねーだろ? 買ったらでいいから連絡しろ」
「あ、で、でも‥‥‥‥‥もしかしたら高校卒業するまで、買ってもらえないかもしれなくて」
「なんでもいいから。大人しく受け取れ」







 言われて、俺は震える手でそれを握りしめる。
 先輩と俺を繋ぐ、細い細い糸。


 でも、これで、ゼロでもマイナスでもなくなった。


 限りなくゼロに近いとしても。





























「待ってるから」





























 先輩はそう言って、俺に触れるだけのキスをして。
 俺を部屋から追いだした。
 俺はドアが閉まる音も聞かずに、その家を出た。
 ノートの切れ端を、両手できつく握りしめて。























「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥結局、なくしたんだよな」







 どさくさで行方不明になってしまった、大事な大事な紙片。
 自分では財布の中に入れたものと思っていたのに、いざ引っ越しが落ち着いて確認してみたら、そこには入っていなかった。
 知り合いが誰もいない寂しさも相まって、泣いて泣いて泣き続けた。

 でも俺は、あることに気付いた。























 先輩に、一度として「好きだ」と言われたことがないことに。























 それで本当に付き合っていたのかわからなくなって、
 それに気付いてしまった以上どうせ自分から連絡なんか出来なかったと、自分に言い聞かせた。
 そしてそのまま忘れようと努めて。



 十年。



 まさかこんなところにあったなんて。



 この本は先輩も好きだった本で、読んだら昔の感情が溢れてきそうで、ずっと避けてきたんだけど。
 懐かしくなって手に取っただけなのに。











「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」











 数字と、アルファベットの羅列。





















“待ってるから”





















 顔も声もろくに思い出せないのに、その言葉だけが耳に響く。
 待ってるって、いつまで?
 時効は何年?
 もう二桁目に入ってしまったけど、それでも待っててくれてる?



















「‥‥‥‥‥‥待ってるわけ、ないじゃん」



















 一人暮らしの部屋で独り言を零して。
 途端、少し楽になった気がした。
 待ってるわけない。
 だったらメールでもしてみようか。
 せっかく見つけたんだから。

 俺は携帯を開いてメール作成画面を立ち上げ、書かれているアドレスを入力する。
 携帯を持っていなかった頃はわからなかったけど、それは明らかに初期設定のままで、つい笑ってしまった。
 そのままの流れで本文を打ち始める。







 引っ越しのどさくさでなくしてしまった紙を今日見つけたこと。
 先輩に好きだって言われたことがないって気付いてから、全部遊びだったと思うようになったこと。
 付き合っていると思っていた頃の記憶を故意に忘れようとしたこと。
 とりあえず元気だということ。
 親が社長を務める出版社で文芸の編集者をしていること。







 脈絡もなく、浮かんできた言葉を浮かんできた通りにつらつらと入力していく。
 どうせ誰も読まないんだから、飾る必要も偽る必要もない。
 ずっともやもやしていた気持ちを全て吐き出して、そのままメールを送信した。

 客観的に見ればすごく未練たらたらだったかな、と『送信完了』の文字を見ながら俺は思う。
 でも先輩がどう思ってたにしろ、俺の方は本気で先輩が好きだった。
 あの後、誰かを好きになったことがないんだから、とっくの昔に終わったとしても忘れきれないのは仕方ないはずだ。
 俺は深く溜息をついて携帯を置き、放ったらかしていた本をまた読み始めた。