携帯が光っていることに気付いたのは、風呂を出てからだった。
メールを受信したらしい。
なんとはなしに確認して、
俺は、凍り付いた。
返信は、あの初期設定のままのアドレスから。
本文にただ打ち込まれた11桁の数字は、紙片と全く同じ並び。
他は何もない。
ないけど。
これを送ってきたのは、誰だ。
‥‥‥‥‥先輩?
いやまさか。
だって十年も前の携帯だ。
使えるかもしれないけど、持ってるはずがない。
でも、それなら一体、誰?
いつの間にか、携帯を握りしめる手に汗が滲んでいる。
時計の長針がどんどん進んでいくけど、何も変化はない。
これって、番号以外書いてないけど‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥電話しろって、こと、だよな‥‥‥‥‥‥。
待ってる、のか?
誰が?
誰を?
胸の辺りがひどく重たい。
上手く息ができない。
俺は静かなパニックに陥りながら、震える指で、発信ボタンを押していた。
耳許で三度目のコールが途切れて、心臓が止まるかと思った。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
『‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥』
何を言えばいいのかわからない。
そもそもこの電話の相手は本当に先輩なんだろうか。
知らない人だったらどうすればいい?
沈黙に喉が塞がる。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥っ、あ、あの、」
意を決して声を絞り出した時。
『‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥律?』
名前を、呼ばれて。
先輩の声なんか覚えてないくせに、
それが先輩なのか確証もないのに、
一気に涙が溢れてきた。
「ひっ‥‥‥‥うぅ、ふっ、」
『律‥‥‥‥‥、本当に、律か?』
わからない。
あなたは誰?
本当に、
本当に、
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥せ、んぱぃ‥‥‥‥‥‥?」
がたん、と。
電話の向こうで音がした。
『お前、今どこにいる』
「え、‥‥‥‥‥‥ぁ、家、です」
『どこ? 都内?』
「は、い」
『最寄り駅は』
十年ぶりなのに、最初に聞くのがそれ?
責めるような強い口調に、俺は困惑しながらぐすぐす鼻を啜って、駅名を告げる。
すると一瞬、無言が返ってきた。
「‥‥‥‥‥‥あ、の?」
『‥‥‥‥‥‥お前、どこ住んでんの? マンション?』
「あ、はい‥‥‥‥‥」
問われるままにここの名前を言って。
途端舌打ちが聞こえて、俺は思わず体を縮こまらせる。
「え、せ、んぱい?」
『‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥同じとこ』
「えっ、」
『俺も、同じとこに、住んでる』
―――――――――――――――――――――――冗談だろ。
呻くような声に、俺は無意識のうちに立ち上がっていた。
携帯を耳に当てるのも忘れて玄関に走り、ドアを開ける。
そして俺の視界に飛び込んできたのは、
「「‥‥‥‥‥‥‥‥あ」」
どうやら全く同じタイミングで外に飛び出してきたらしい、お隣さんだった。
もう一年ここにいるけど、初めて会う。
俺は内心めちゃくちゃ混乱したけど、反射的に「こんばんは」と頭を下げていた。
その人も戸惑いがちに会釈してくる。
黒髪で背の高い、スタイルのいい男の人だ。
少し年上かもしれない。
ふと、その人が握りしめている携帯に気付いて、俺は我に返った。
‥‥‥‥‥‥やばい、電話。
「あ、すっすみません、先輩?」
慌てて声を掛けるけれど、スピーカーからはなんの反応もない。
通話状態のままなのに。
ここで切れてしまったら、
「せ、先輩? あのっ」
「――――――――――――――――――――――律?」
声が、した。
携帯越しでなく、直接空気の震えが伝わってきた。
真夜中に近い時間、12階にいるのは、俺とお隣さんだけ。
黒い瞳と視線が絡んで、俺は大きく心臓が鳴るのを聞いた。
まさか。
まさか。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥さ、が、せんぱい‥‥‥‥‥‥?」