一時停止を押されたみたいに俺たちは立ち尽くしていたけど、最初に動き出したのは向こうだった。
 つかつかとこっちに来て俺の腕を掴むと、そのまま引っ張られる。







「うわっ、」







 隣室に連れ込まれる直前、俺は表札を見た。
 1201、高野。
 きっと、離婚したんだ。先輩のご両親も。
 お前んとこのが早いとは思わなかったって言ってたから。
 そんな、微妙にずれた思考も、ドアが閉まると同時に抱きしめられて吹っ飛んだ。







「あ、の、先輩‥‥‥‥‥っ」

「‥‥‥‥‥‥俺、お前に好きって、言ってなかったか?」







 うわ、やばい。
 やっぱりあのメール読まれたんだ。
 まさか本人に読まれるなんて夢にも思ってなかったから、俺は大いに焦る。



「いやっあの、その‥‥‥‥‥‥も、もしかしたら俺が覚えてないだけかもしれないしっ」
「でも、お前が俺のこと忘れようとしたのはそのせいなんだろ」
「う、え、っと」



 ああ、俺の馬鹿。
 やっぱりメールなんか送るべきじゃなかったんだ。

 だけど、ということは、つまり。
 十年以上前に買った携帯を、嵯峨先輩はずっと使える状態に保ってたってこと、だよな?
 どうして?
 なんのために?
 もしかして、







「悪かった。でも遊びなんかじゃなかったから。ただ、‥‥‥‥‥言った気でいた」
「せ、んぱい、」





























「俺は、お前が好きだよ」





























 知らなかった。
 先輩は、俺のこと、本当に好きでいてくれたんだ。
 俺が忘れようとしてる間も、ずっとずっと、俺の連絡を待っててくれたんだ。

 ただただひたすら申し訳なくて、泣けてくる。
 抱きしめてくれる腕の強さが嬉しくて、抱きしめ返したいのに、俺にそんな資格があるはずもない。
 どうしよう。
 どうすればいい?







「律‥‥‥‥」
「あ、」







 おもむろに顎を掬い取られたと思ったら、そのままキスをされて。
 こんな俺を、それでも先輩が求めてくれてるってわかって。
 俺はもう、罪悪感なんかそっちのけで、先輩の思うままに溺れるしかなかった。





















「終わらない‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」







 あの後、嵯峨先輩――――――じゃなくて高野さんといろんな話をした。
 離れていた十年間のこと、そして今のこと。
 俺は今勤めてる親の会社で、少し詰まってることを零した。
 七光りとかコネ入社とか言われて、ちょっと参ってるっていう話。
 まあそのお陰で落ち込んで、気分を変えようとあの本を手に取ったわけで、結果的にはよかったのかもしれないけど。
 なんか愚痴っぽいかなと思いながらそんなことを言ったら、高野さんが予想外な提案をしてきた。

 丸川書店で少女漫画の編集やってみないか、って。

 高野さんは月刊エメラルドっていう雑誌の編集部で、編集長をやってるらしい。
 嵯峨先輩が少女漫画って意外すぎる。
 俺は呆気にとられたけど、ちょっとやってみたくなった。



「いくらお前でも、仕事中は甘やかさねーからな」



 にやりと笑う高野さんに宣戦布告して、俺は転職を決意した。







 それから、早三ヶ月。
 先月丸川に移ったけど、あの言葉通り、高野さんは厳しかった。
 俺は三年編集やってたとはいえ文芸担当だったから、少女漫画なんて畑違いもいいとこ。
 高野さんは勝手がわからず困惑する俺に容赦なく課題を次々と突きつけてくる。
 今はネームの読み込み中。
 期限は明日。


「じゃあね、小野寺くんお先。頑張って」
「あっはい、お疲れ様です」


 周期前ということもあり余裕があるようで、先輩達はちらほらと帰って行き。





「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥あの、高野さん」
「何」
「あんたも帰ったらどうですか」
「もうちょっとしたらな」





 木佐さんの椅子に我が物顔で腰を下ろし、目を血走らせネームを凝視する俺をじろじろ見ているだけの、エメ編名物横暴編集長。
 正直うざい。鬱陶しい。



「明日期限にしたのあんたでしょ。邪魔しないでください」
「頑張ってるご褒美にもっかいキスしてやる」
「もっかい殴られたいんですか?」



 いきなりキスしてきた高野さんに渾身の右ストレートを食らわせたのはつい十分前だ。
 そのせいで男前な顔の左頬が赤くなってるのに、懲りずにそんなことを言ってくる。
 学習能力なさすぎやしないか。
 喉元過ぎれば熱さを忘れるってやつか。
 お陰様で、俺の集中力はあれからずたぼろなんだ。
 今度はやられる前にアッパーでも決めてやろうかと形のいい顎を眺めていると、
 不穏な気配を察知したらしい高野さんは「わかったわかった」と溜息をついて編集長席へ向かう。
 よかった、これで心置きなく仕事が出来る。


「そーいえばさ、さっきから気になってたんだけど」
「‥‥‥‥‥‥‥なんですか」
「すげーいろいろ書き出してるけど。お前、もしかしてレポート書こうとしてる?」
「ああはい、一応書面もあった方がいいかと思って。といっても半分以上は自分のためなので、
 いらないなら目通さなくても結構ですよ。とりあえず提出はしますけど」


 要領悪いとか馬鹿にされるかな、と思った。
 ところが意外にも反応がない。
 訝しんでちらりとそっちを見ると、高野さんは横を向いて顔を手で覆っていた。


「‥‥‥‥‥高野さん?」
「あー‥‥‥‥‥駄目だな、俺」
「え?」


 意図の掴めない呟きに首を傾げる。
 でも。
 ちらりと俺に向けられた目に、言葉を失った。





























「俺マジで、お前のこと好きだわ」





























 冗談とか、からかわれてるとかならまだよかった。
 なのに甘くとろけそうな表情をされてしまったら、いっそどうすればいいかわからない。
 高野さんは高校生の時が嘘みたいに、思ったままに俺に好意を向けてくる。
 もう二度と同じ轍を踏みたくないっていう気持ちはわかってるけど、
 そういうのに耐性がないまま今まで来ている俺は、嬉しいのにそれを持て余してしまう。

 ろくな反応も出来ずにわたわたしていると、高野さんが荷物片手にこっちに来る。
 そして、俺の机と椅子の背に手をつくと、身を屈めて、俺にキスをする。
 体勢的にきついからか一瞬だったけど、俺が赤面するには充分すぎるくらいで。







「うぁ、あ、あの、」
「小野寺、絶対明日中に終わらせろよ。そのために期限金曜にしたんだからな」
「は‥‥‥‥‥?」

「そしたら土日、ずっと一緒にいられるだろ」







 ずっと一緒に、って。
 いい歳した男二人がせっかくの休日、一緒にいてどうするんだ。

 ‥‥‥‥‥‥なんて、言えるわけもない。
 照れくさいけど、かなり嬉しい、から。
 十年の空白を挟んで正式に恋人になったんだから、尚更。



















「頑張れよ、律」



















 表面は些細でありふれた言葉でも、

 溢れんばかりの感情と共にこの人から与えられるだけで、本当になんでも出来る気がした。



















「‥‥‥‥‥‥‥‥‥ご褒美。期待してますからね」