てぃあ・ろっぷ




 ピルルルル
 ピルルルル
 ピルルルル


 しつこい着信音。
 無視するつもりだったけど鳴り止まなくて、さすがに周りに迷惑かと思い、俺は着信ボタンを押した。

「‥‥‥‥はい」
『やっと出たな』

 ああ、高野さんだ。
 さっきまで会ってたのにどうしたんだ。

『お前シカトしてんじゃねーよ。さっさと家の鍵開けろ』
「すみません。俺ちょっと出てて」
『‥‥‥‥‥‥今どこだ』
「駅です」

 嘘はついてない。
 ただ、俺がいるのは最寄り駅じゃない。
 乗り換えの電車を待っているところ。

『直帰していいって言ったろ? なんでまだ駅にいるんだ』
「まあ、ちょっと」











 思い出探しに行こうかと思いまして。











 そう呟いた時、ホームに電車の到来を知らせるアナウンスが入る。

「あ、電車来るみたいなので。失礼します、おやすみなさい」

 返事も待たず俺は電話を切り、そのまま電源を落とす。
 誰にも邪魔されたくない。
 俺は人もまばらな車両の中に足を踏み入れた。















 学校。図書室。一目惚れ。

 煮詰まってる武藤先生のプロット案を聞いた時は本当に焦った。
 結局なかなかイメージが広がらないということで、いろいろ話を聞いたり意見を出したりしてほぼ違うストーリーになった。
 でもそれからもずっと、ぽしゃったそのプロットが俺の頭を離れなくて。
 どうしても思い出してしまうのは、記憶から抹消したはずの、俺の初恋。
 何の因果か当の本人に再会してしまったせいで、忘れたと思ってたのに最近は夢を見たり、
 あの人の何気ない仕草で不意に懐かしさがこみ上げたりする。
 そこで、俺は一大決心をした。



 もう一度、あの場所に行こうと。



 そうすればこのもやもやに、少しはけじめをつけられるかもしれないから。
 今はまだ周期(臭気の方)でもないし、打ち合わせの後直帰していいと言われたから、俺はその足で向かったのだ。





























 俺たちの母校に。





























「‥‥‥‥‥‥久しぶり、だなぁ」



 ずっとずっと、避け続けてきた場所。
 もう夜遅いし当然門は閉まって、生徒どころか教員の姿もない。
 でも街灯で浮かび上がるそこは、確かに、俺が通っていた学校だ。
 視線は、自然と図書室へ向かう。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

 中、入りたいな。
 そっと近づいて門に触れてみるけど、不審者対策なのか、しっかり鍵が閉まってる。
 でも、図書室だけでいいから覗きたい。

 中学生の時、一人の先輩が俺のために本を取ってくれて。
 その人に一目惚れして。
 貸し出しカードで名前を知って。
 ストーカーまがいのことをして。
 三年後、勢いで告白してしまって。
 付き合って。
 キスして。
 抱かれて。
 遊ばれたと思って、逃げた。



 全部全部、あの場所から始まったんだ。



 記憶はあやふやなくせに、あの時先輩を大好きだった気持ちが鮮明に蘇って、怒濤のように押し寄せてくる。
 忘れかけてた、純粋で真っ直ぐな、誰かを好きだっていう気持ち。

 いや、違う。
 目を逸らしていただけだ。
 わからないふりをしていただけ。
 わかってた。
 わかってるけど。
 恐い。
 それでも。
 怖い





 泣きそうになるのはなんとか堪えた。
 胸の中で暴れ回っていたいろんな想いも、深呼吸していたら少し落ち着いた。
 でもこの後どうするか、俺は決めかねていた。
 本当はもう一カ所、行きたいと思っていたところがある。
 だけど、そこに行ってしまったら、俺が俺じゃなくなってしまうような気がして。
 本当にもう、後戻りできなくなるような気がして。


「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥帰ろ、」


 やめておこう。
 きっとそれが俺のためだ。
 少し後ろ髪を引かれる思いで、でもきっぱりと背中を向けた。



 なのに、















「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ぁ」















 なんで。どうして。

 なんでアンタは、















「‥‥‥‥‥‥‥俺も、思い出探しに来たんだけど」















 どうしてそうやって、俺の心を掻き乱すんですか。















「お前も、ここ来てたんだな」















「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥っ、」





























 さが、せんぱい。





























 口から出かかった名前を、俺は必死に押し止めた。
 違う。
 この人はあの人じゃない。
 確かに俺は、あの人のことが好きだった。
 でももう好きじゃない。
 この人のことも好きじゃない。好きなんかじゃない。


 だけど、俺は。
 この人を憎む理由を失いかけていた。
 俺はあの人に遊んで捨てられたのだと、十年間ずっと思っていた。
 なのにこの人は、自分はそんなことしてないのに、お前が勝手に消息不明になったんだろと、まるで俺が悪いみたいに言う。
 どっちが本当なのか。
 俺はこの人の言葉を信じていいのか。



 あの時、あの人は、俺のことを好きだったのだろうか。












 じゃあ今のこの人は、



















 今の俺は、



















 俺は思わず、一歩後退る。
 この人にこれ以上、俺の中に踏み込んでほしくない。
 俺の人生に関わってほしくない。











 もう、あんなふうに、きずつくのは、いやだ。











「俺ん家、行くつもりだった?」
「なっ、」
「一緒に行こう」



 つかつかと無遠慮に近づいてきたと思ったら腕を取られて、本気で焦った。
 冗談じゃない。
 俺はたった今、そこに行かないと決めたばかりなのに。

「い、嫌です!! 行きませんっ!!」
「じゃあ、俺行きたいから付いてきて」
「行きたいなら一人で行ってください、っ離してくださ」

 振り回していた手が、突然自由になった。
 本当ならそのまま駅に走るべきだった。
 でも高野さんが俺の言うことを聞いてくれたなんて信じられない。
 俺は思わず、彼を見た。



「‥‥‥‥‥‥行こう。一緒に」



 高野さんは、見たことがないくらいやさしい笑みを、俺に向けていた。



















「おいで、律」



















 ああ、もう。



「律」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ぃで、くださ」
「なに?」
「‥‥‥‥‥‥っ、名前で、呼ばないでください‥‥‥‥‥‥っ」



 そんな、声で。
 反則だ。
 逃げられなくなる。
 泣きたくなる。



「‥‥‥‥‥‥わかった。だから、行こう」



 それなら、それならせめて、さっさと行ってくれないだろうか。
 俺は置いてかれることを望みながら、一歩踏み出した。
 まるで歩きたての子供のように覚束ない、前に進む意思の弱い、のろのろとした足の運び。
 なのに高野さんは急かすでもなく、俺が隣に来るのを待ち、俺の歩調に合わせて歩き出す。
 こうやって一緒に歩くのは、そんなに珍しいことじゃない。
 退社時間が重なると、帰路はほとんど同じだから、ずっと二人で電車に乗って、歩いて。


 でも、この道は、この道だけは、特別なんだ。
 先輩の背中を追いかけるばかりだった。
 先輩と同じ道を歩いてるっていうだけでどきどきして、心臓が破裂しそうで、隣になんかいられなかった。
 先輩は時々俺を振り返ったけど、並んで歩いたことは、結局一度もなくて。
 でも今、俺の横にいるのは、十年の時間差はあれど同じ人で。




 嗚咽は必死に噛み殺したけれど、もちろん完全ではなくて。
 涙は拭っても拭っても、あとからあとから溢れ出てきて。
 高野さんが気付かないはずがない。
 でも、何も言わずに、高野さんは俺の隣を歩いた。

 多分、高校生の頃の倍は、時間がかかったと思う。
 ようやく、足が止まった。



「‥‥‥‥‥更地になったんだな」



 その呟きは、俺の耳には届かなかった。
 更地だって関係ない。
 ここは、確かに、嵯峨先輩の家があった場所だ。
 今までの人生で一番の恥ずかしさと、幸せと、絶望を味わった場所。









“律”

 せんぱい、さがせんぱい。すきです、すきです、だれよりも。あなただけ。

“律‥‥‥”

 せんぱいは、おれのこと、すきですか?









 俺は、そのまま泣き崩れた。