「‥‥‥‥‥‥‥‥うぅ‥‥‥‥」

 寝苦しさを感じて、俺の意識が浮上した。
 ‥‥‥‥‥‥あれ、いつの間に寝たんだっけ。
 昨日は、‥‥‥‥‥‥校了して、それから‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥



「っ!!」



 俺ははっとして目を開けた。
 いや、そのつもりだった。
 なのになぜか、視界が普段の半分しかない。
 というか、瞼が重い上に痛い‥‥‥‥‥。
 でもとにかく息がしづらくて、俺は目の前にある圧迫感の源を押しやろうと手をやったけど、そのまま凍り付いた。
 ‥‥‥‥あったかい?
 俺は困惑して、視線を上にずらした。







「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥たかの、さん?」







 どうやら俺は、高野さんの胸に抱きすくめられるような体勢になっているらしかった。
 そして俺にきつくきつく腕を回す張本人は、どうやらまだ夢の中。
 何もかもを見透かす瞳は隠され、規則正しい寝息が聞こえる。

 ‥‥‥‥‥‥‥ずっと、こうしててくれたんだろうか。
 昨日大泣きしてしまった俺を、慰めも蔑みもせず黙って抱きしめてくれてから、ずっと?
 というか‥‥‥‥‥‥あの後どうやって、帰ってきたんだっけ。

「‥‥‥‥‥」

 俺は彼を起こしてしまわないようにゆっくりと、その腕の中から抜け出す。
 なるべくそっとその上を乗り越えてベッドを降り、寝室を出た。
 やっぱり、ここは高野さんの部屋だ。
 ちょっと悪いかな、とは思ったけど、喉が乾いて仕方ない俺は置いてあったペットボトルの水を少し飲み、洗面所へ向かった。


「うわ、」


 昨日は、散々泣いた。
 何年分だろう。十年分?
 先輩と別れた直後は、意地になって必死に我慢した。
 あんなにセーブ出来ずに泣いたのは初めてだった。
 まさかそれを、よりによって上司に見られるとは‥‥‥‥‥。
 結果として、鏡に映った俺の瞼は、見事なまでに赤く腫れ上がってる。
 水が触れるのも痛い。
 とにかく今日休みでよかった、と思っていると。





「‥‥‥‥‥‥‥小野寺?」





 鏡に影が映ると同時に声を掛けられて、俺は文字通り飛び上がりそうになった。
 いや、仮にもこの部屋の主なんだし、そんなお化け見たみたいな反応するのはおかしいんだけど。

「た、高野さん」

 完全に寝ぼけ眼だ。
 しかも二カ所ほど、ぴょいん、と変に髪が撥ねてる。

「‥‥‥‥‥‥酷い顔だな」
「すみませんね元々です」
「じゃなくて、目。すげー痛そう」

 高野さんはフェイスタオルを出して濡らし、固く絞ってくれる。

「ほら。冷やしとけ」

 渡されたタオルは冷たい。
 高野さんはそのまま踵を返し、洗面所を出ようとする。
 その背中が数歩、たった数歩分遠ざかっただけで、俺は突然たまらなく不安になって。



 思わず、服の裾を掴んだ。



 我に返って手を離すと同時に、高野さんが振り向く。

「‥‥‥‥どうした?」

 ああ、この声。
 少し低いけれど、同じ人の声だ。
 どれくらい眠ったかわからないけど、俺の頭はまだ、昨日の余韻を引きずっているらしい。

「‥‥‥‥‥‥‥たかのさん、」
「なに?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥かの、さ」
「ん」

 俯いたまま動けない俺を、その人はそろりと抱きしめてくれる。
 昨日感じたのと同じ、安心感。
 俺は馬鹿だ。本当に。

「‥‥‥‥‥‥どうして、何も、聞かないんですか」

 言いたいことも、きっとあるだろうに。
 みっともないくらい震えた声で尋ねると、高野さんは俺の頭を撫でる。

「お前昨日、一人でいたかったんだろ? そこに俺は無理矢理行ったからな。傍にさえいさせてくれれば、もう充分だと思って」

 どうして、この人はこうなんだろう。
 寂しいなんて言ってないのに、傍にいてくれて。
 抱きしめてなんて言ってないのに、抱き寄せてくれて。
 そのくせ抱きしめ返しもしない俺に、愛を囁いてくれる。



 ああもう、無理だ。もう無理だよ。



 この人の傍にいることより、この人と離れる方が、無理だ。



「‥‥‥‥‥‥‥‥‥たかのさん、」
「ん?」
「ひとつだけ、‥‥‥‥‥‥‥ひとつだけ、答えてください」

 俺は重力に従って垂れ下がっていた腕を上げ、その人の肩を押して距離を作る。
 少し見上げる位置に、高野さんの瞳がある。
 俺は潤みかけていた目をしばたかせて、水滴が頬を伝うのも構わず視界の歪みをなくし、それを見据えた。
 もし僅かでも嘘や陰りがあったら、完全に決別する覚悟で。











「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥嵯峨先輩は、俺のこと、好きでしたか?」











 高野さんは、俺から目を逸らさなかった。



















「ああ。好きだったよ。本当に好きだった」







「もちろん今も、お前が好きだ」







「ついでに言えば、お前がいなくなってからの十年間も、俺はずっとお前が好きだった」



















 本当ですか。
 本当に俺を愛してくれるんですか。

 自分の想いだけ押しつけて、あなたの想いには気付けずに逃げた愚かな過去も。

 あなたを憎んで恨んで、全てを忘れようとした十年間も。

 ひねくれてしまって、素直になれずあなたを拒絶するばかりの今も。

 丸ごと、あなたは、愛してくれるんですか?











 一瞬として逸らされない瞳に、俺はその答えを見つける。











「小野寺」
「‥‥‥‥‥‥‥‥はい」
「小野寺、好きだ」

 小さく返事をしただけで、高野さんは嬉しそうに咲う。
 そうだよな。
 認めたくはないけれど、俺もあの苦しかった十年、心の中で何度も何度も嵯峨先輩を呼んだ。
 返事がないのは当たり前なのに、それが酷く心に凍みて、特に気持ちが落ち込んでる夜は少し泣いたりもした。
 高野さんも、もしかしてそうなんだろうか。

「‥‥‥‥‥‥高野さ、」
「なに?」

 ああもう、目が痛くて痛くて仕方ないのに。
 また涙が溢れてくる。

「泣くな。瞼の腫れが引いてからにしろ」

 目尻に指が触れ、小さな痛みを感じる。
 でも、止まらないんだ。
 必死に留めていたこの気持ちも、もう。





「律」





 その瞬間。



 消し去ったはずのあの人への想いと、逃げ惑っていたはずのこの人への想いが、リンクした。





























「すきです」





























 ぽろりと、俺の口から零れ出てきた言葉。
 急だったからか、高野さんは本当に驚いたように目を瞠って。
 ‥‥‥‥‥それから、とろけそうに甘い笑みを、俺に向けてくれた。

「律‥‥‥‥」

 涙が伝う頬を包まれ、唇にキスがひとつ落ちてくる。
 こつん、と、額を合わせられる。

「好きだ、律」
「‥‥‥‥は、ぃ」
「もう、逃がさない。二度と離したりない。覚悟しとけ」
「‥‥‥‥‥‥‥‥それなら、高野さんも」

 とうとう言ってしまった恥ずかしさがじわじわと押し寄せてきて、つい俺も口を開く。

「俺のひねくれ度、多分高野さんが思ってる以上ですから。十年物だから直るかわかりませんし‥‥‥‥絶対苦労しますよ」
「そんなんで今更醒めないから心配すんな。いくらでも付き合ってやる」

 ほんの刹那体が離れて、目が合った。
 間を置かず抱きしめられたから、すぐに見えなくなったけれど。
 俺が呼吸を忘れるには充分だった。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥たか、のさ」
「律、律、‥‥‥‥‥律。好きだ」

 微かに震えた声で、縋るように繰り返されて。
 恥ずかしすぎてもう一生言えないんじゃないかと思っていたその言葉が、また、俺の口から溢れ出た。













「高野さん。好きです」













 そして俺は、一回り大きいその体を、向き合いきれなかった17歳の彼ごと、抱きしめ返した。