「‥‥‥‥‥‥あ、のさ」
「なに」
「こんなの聞くの無神経かもしれないけど‥‥‥‥‥‥‥俺、これから嵯峨のことなんて呼べばいい?」



 クラスメートの嵯峨は、先日両親が離婚して、名字がお母さんの旧姓の“高野”になった。
 他のヤツらはもしかしたら知らないかもしれない。
 嵯峨はもちろん担任もわざわざみんなに周知したりしてないし。
 でもそれを知ってる俺としては、法律では家族じゃなくなった人の名字で呼ぶことに、少しばかり躊躇いがあって。
 本人はどう思ってるのか気になって、いつもの図書室で聞いてみる。
 そしたら嵯峨は一瞬、本から顔を上げた。


「別に今まで通りでいい」
「‥‥‥‥‥‥嵯峨、で?」
「生まれてこの方ずっと嵯峨だったし。確かに正式な書類とかには“高野”って書かなきゃいけなくなったけど、
 学校とか日常生活では旧姓でも問題ねーし」
「そんなもんか‥‥‥‥‥」
「そんなもんだろ」


 こともなげに言ってのける嵯峨。
 あんまり表情変わらないから、仲いい方っていっても、その胸の内まではわからないけど。
 でも、いろいろ複雑なんだろうな。
 親が離婚した時の気持ちなんか、どんなに背伸びしたって俺にはわからない。

「‥‥‥‥‥‥‥‥ごめん」
「何が?」
「‥‥‥‥‥‥蒸し返して」
「別にいーけど」

 いいわけないだろ。
 本当素直じゃない‥‥‥‥‥というか、ひねくれてるというか、冷めてるというか。
 どんな幼少期を送れば17でこんな冷めた人間ができあがるんだ。
 大人びた、っていうのとはまた違う。
 似てるかもしれないけど、違う。
 こいつの場合、好んでもないくせに孤独を望んでるだけだ。















 そもそも俺と嵯峨が仲良くなったきっかけは本だった。

 小説コハル。

 そんな雑誌を読んでる高校生男子なんてそうそういない。
 教室でたまたま嵯峨がそれを持ってるのに気付いて、嬉しくなった俺がほとんど話したこともないそいつに声を掛けたのが始まりだ。
 最初は素っ気なかったけど、話が合うってわかってからは、自然と二人でいることが多くなった。
 放課後もこうやって、図書室で一緒に過ごす。
 雑談に花を咲かせるわけでもなく、ただ窓際の席に向かい合って座って、思い思いの本を読む。
 それだけなのに、居心地がいい。























 友達、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥だよな?























「‥‥‥‥どーした」
「え?」
「なに睨んでんの」
「睨んでないけど」
「じゃあなんで見てんの」
「、‥‥‥‥‥‥‥‥別に」





 俺は、嵯峨が好きだったりする。
 友達とかじゃなく恋愛的な意味で。
 中等部に入学してすぐ、俺はここで嵯峨に一目惚れした。
 その時はクラスも違ったし、高等部に上がって同じクラスになってからも話しかけるきっかけがなくて、
 ずっと遠くから見てるだけだったけど。
 五年もそんなことしてるうちに、俺はこの気持ちを隠すのがかなり上手くなっていた。

 嵯峨と仲良くなったのがこの時期で本当によかったと思う。
 特に中等部の間は暴走しかかってストーカーみたいになってたからな‥‥‥‥‥‥。
 今のとこ、ボロは出してないはずだけど。



「そういや今日、なんか人少なくないか?」
「そういやそーだな」
「なんかあるのかな?」
「さあ。今日って水曜‥‥‥‥‥‥」


 不意に、嵯峨の声が途切れる。
 なんだ? と思って嵯峨を見ると、あらぬ方向に目をやって数度瞬きした後、こっちを向いた。


「‥‥‥‥‥今日、何日だ?」
「今日? えーっと確か20日‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥、あ」



 え。
 今日ってもしかして、雑誌の発売日?
 思わず顔を引き攣らせると、嵯峨もそれで確信したのか立ち上がる。


「本屋行くぞ」
「りょ、了解」


 なんで忘れてたのか‥‥‥‥‥っていうか、なんで忘れていられたのか不思議だ。
 角遼一の連載始まるーって先月から楽しみにしてたのに。
 俺は慌てて本を鞄に突っ込んで、先を行く嵯峨を追う形で出入り口へ向かった。

 本当、人少ないな。
 テスト週間なんかは混むけど、それ以外だってここまで閑散としてることはない。
 むしろ誰もいなくないか‥‥‥‥‥?
 まさかみんな本屋ってわけじゃないよな、と首を傾げた時、不意に嵯峨が振り向いた。


「今気付いたんだけどさ」
「へ?」
「お前、俺のことなんて呼べばいいかって聞いたけど。一番手っ取り早い方法があるじゃねーか」
「え、何」

「下の名前で呼べばいーだけだろ」



















 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥下の名前?





























「いや、無理」





























 即、口をついて出てきたのは拒否。
 そしたら嵯峨は、軽く片眉を上げた。



「なんで?」
「なんでって」
「トモダチの名前呼ぶだけなのに、なんで無理?」


 実際呼んでるヤツもいるだろ、と言われて、俺は返事に窮する。
 確かに元クラスメートとか、名前で呼んでる友達は何人かいる。
 でも俺にとっては、嵯峨はただのクラスメートじゃなければ、ただの友達だとも思ってないわけで。





「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥えーと、」





 うわ、やばい。
 混乱して血が上って、顔が赤くなってくる。
 一旦こうなってしまうと自分では止めようがない。


 無意識に数歩、後ろへ下がると、嵯峨は逆に距離を詰めてきた。
 俺の背中が本棚にぶつかっても、更に近づいてくる。
 伸びてきた手が、俺の顎を掴んで持ち上げる。
 こんな至近距離で顔を突き合わせるのは初めてで、心臓が痛くなる。



「ち、ちょ‥‥‥‥‥‥‥嵯峨?」
「俺の名前知ってんだろ? 呼べよ」
「いや、あのっ」
「じゃなきゃ、このままキスするぞ」
「は!!?」



 なんでそういう話になってるんだ!!?



 冗談だろうと思ったけど、どんどん顔を寄せられる。
 嵯峨は整った顔立ちもあってもてる。
 そんなのがぼやけそうなくらい迫ってきて、平常心でいられるわけがない。

 だって俺はこいつが好きだから。

 慌てて肩を押し返そうとしてもびくともしない。
 や、やばいってこれ!!























「っ、‥‥‥‥‥‥っ、さ、むね」
「ん?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥政宗、」



























 精一杯の俺の声は見事に掠れてたけど、ちゃんと耳に届いたらしく嵯峨が止まる。
 でも額はくっついてるし、俺が限界まで引いている顎を少しでも上げれば、本当に唇が触れ合ってしまいそうだ。
 あ、危なかった‥‥‥‥‥‥けど、安心できる状況じゃない。
 なぜなら止まりはしたものの、離れてくれる気配がないから。
 逃げたいのは山々だけど、パニックになっててどうすればいいかわからない。
 火照りも引かずに嵯峨の黒い学ランの上で視線を彷徨わせてると、ふっと、嵯峨が笑ったのがわかった。



「‥‥‥‥‥久しぶりに見たな、その顔」
「え、」
「俺が気付いてねーとでも思ったか? 六年目だぞ」
「は‥‥‥‥‥な、なに、」



 取り繕う以前に、意味深な台詞を理解する余裕がない。
 困惑してると、至近距離のまま保たれていた距離が、また少し縮まった。





























 ちゅ





























 小さな音が、した。



 嵯峨の顔がぼやけて、そのまま数秒の空白があって、またさっきと同じ鼻がくっつきそうな位置に戻る。
 いや、ちょっと待て。


 なんだろう、この‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥唇にあるやわらかい感触の名残は‥‥‥‥‥‥?


 唖然としてただただ立ち尽くすばかりの俺の手を、嵯峨が不意に、ぐいっと引っ張った。



「本屋行くぞ」
「えっ? あ、うん‥‥‥‥‥?」
「そのあと家来い」
「え゛!!?」



 お誘いとしては嬉しい。
 けど、今は無理だ。
 普段みたいに上辺だけでも「友達」として振る舞えるならまだしも、
 このパニック状態で二人きりで嵯峨の部屋になんかいられるわけがない。
 傍にいるだけで頬が熱くなる。
 まともな会話ができなくなる。
 挙動不審になる。
 それがわかってるのに行けるか!!!



「いや、ごめん無理。行けない」
「親に遭遇する確率も格段に減ったわけだし、連れ込まない手はないよな」
「なんの話っ、てか離せ!!」
「いーだろ別に。いつも通り図書室にいたってことは、他に用事もねーんだろ」
「あ、ある!! ホントに無理だから!!」
「お前嘘下手すぎだろ」
「ちょっ‥‥‥‥嵯峨!!!」



 手を握られて、どうすればいいのか皆目見当もつかない。
 普通の同性の友達にこういうことされたらどんな反応をするのが正解なんだ‥‥‥‥‥!!?
 完全に素になってる自分に焦って、俺はいろいろ落ち着かせようと嵯峨を呼ぶ。

 でも。

 振り返ったそいつは、目を細めて咲った。





























「政宗、だろ?















 ―――――――――律」





























 遠目に眺めているだけだった五年間。


 友達として過ごした数ヶ月。


 少しずつ交わってきた俺たちの関係はまた、より近い方向に変わるんだろうか。





 もしかしたら、これが、最後の。







TURNING POINT