7月初旬。



 秋休みに入ったので日本に戻ってくると、率が嵯峨先輩と付き合っていた。
















「ただいまー‥‥‥」







 巨大なトランクを引きずって、なんとか家に辿り着く。
 途端に出迎えに走ってきたのは、双子の兄だった。



「おかえり律!! 早速で悪いんだけどさ、ちょっと来て!!」
「ええ!? いやっちょ、何‥‥‥‥!!」



 満面の笑みで腕を掴まれたと思うと、ぐいぐい引っ張られた。
 ずっとタクシー乗ってたせいか足がもつれて、俺はそのまま応接室まで連行される。

 何、お客さん?







「ほらっ高野さん!! これ俺の弟!!」







 その人を見て、俺は。























 自分の心臓が止まったのを感じた。























 だってあれから、まだ一年くらいしか経ってなくて。
 忘れようとしていた面影が、また色を帯びて繊細に蘇ってしまう。



 その人も俺を見て軽く目を見張った、けど、俺と同じ意味ではなかったみたいだ。


「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ホントにそっくりだな」
「一卵性双生児だからね! はいっ律、ちょっと座って」
「あ、」


 嘘。
 嘘だ。





























「律。この人、俺の恋人の高野さん。高校の時の先輩だよ。旧姓は嵯峨さんだけど、ご両親が離婚して名字変わってて」





























 こんな、ことって、







「ていうか、オイ。りつ、って」
「ああ、俺たち口に出しちゃうと名前一緒なんですよ。俺は円周率の“率”で、こっちは律儀の“律”」


 それを聞いて、並んで座った俺たちを眺めていたその人の片眉がぴくりと上がった。
 いや、そんな気がした。
 だって俺はこの人を、真っ直ぐになんか見られない。

「‥‥‥‥‥‥‥高校の時、俺にストーカーしてたのは行人偏の方の“律”だったな。貸し出しカードはそうなってた」
「ああ、それ俺です。ストーカーだってばれるの怖くて、つい弟の名前で借りちゃったんですよ」
「名字も名前も変えるってどんだけだよ‥‥‥‥」
「若気の至りですよ〜」

 ああ、そういうことか。
 率は俺のふりをしてるんじゃない。
 全部自分だったことにしてるんだ。


 ストーカーまがいのことをしたのも、
 この人に告白したのも、
 この人と付き合ってたのも、











 “律”じゃなくて、“率”だと。











 そうだよな。
 俺たちはずっと、嵯峨先輩が好きだった。
 でも率は正攻法で迫る方法を練っていて、近づくことも出来ないままストーカーする俺を嘲笑していた。
 だから先輩と俺が付き合うことになった時は本当に妬まれた。
 一方の俺は舞い上がって、先輩と初めてファーストフードを食べたこと、放課後先輩と図書館で話をしたこと、先輩の家へ行ったこと、
 全部を率に話した。
 俺は隠し事が下手だから、キスしたことも、セックスしたこともばれた。
 だから率は、全部知ってる。
 “律”と付き合ってた間の話題になっても、話を合わせるのはそこまで大変じゃないだろう。
 顔も名前も同じ双子の兄は、俺と違って器用だから。



「あ、‥‥‥‥‥あの、すみません。俺ちょっと疲れてるんで、部屋に‥‥‥‥」



 率は俺が留学に行ってることを話してたけど、遮るようにして立ち上がった。
 もう、嫌だ。
 ここにいたくない。
 苦しい。
 だってまだ、一年しか、経ってない。
 忘れきれてもいないし、割り切れてもいないのに。


「ああそっか、そうだよね。引き留めてごめん。あ、父さんは9時頃には帰るからって。夜ご飯はそれまで待つと思うから」
「わかった。‥‥‥‥‥‥すみません、失礼します」
「‥‥‥‥‥‥ああ。どーも」


 大丈夫。
 気付かれてない。
 気付かれるはずがないだろ。
 だってあの人と付き合ってるのは、率なんだから。
 今も、昔も。

「じゃあ、俺も帰るわ」
「えーなんでですかー? ご飯食べてってくださいよー」
「いや、いい。面白いもんも見させてもらったしな。じゃあな、率」



















 りつ



















 俺は玄関に放置してたトランクを、一人で二階まで引っ張り上げた。
 絶対誰かに頼まなきゃ無理だと思ってたけど、やれば出来ないことはない。
 もう、自棄だった。
 部屋のドアを勢いよく閉めて、外界を遮断する。


「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥っ、」


 どういうことだろう。
 俺はあの人にフられたはずなのに、率はそのまま関係を引き継いでるみたいだ。
 いや、もう、どうでもいい。
 こんなことなら、あっちでももっとちゃんと、家族と連絡を取るべきだった。
 あの人が家に出入りしてるってわかってたら、秋休みが長かろうがなんだろうが、帰ってなんかこなかったのに。
 復路のチケット破棄して、すぐあっちへ戻ろうか。
 せっかくあの人から、あの初恋から逃げたのに。



























「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥せ、んぱぃ‥‥‥‥‥‥‥‥」



























 もう、最悪だ。





















「‥‥‥‥‥‥‥‥あ」







 ああもう、どうして。







「‥‥‥‥‥‥あんた、弟の方だな」



 立ち寄った大きな本屋。
 何の因果か、あの人に会ってしまった。
 あの後も二回くらい家で出くわしてしまったけど。

「よく、わかりますね。俺たちそっくりだから、みんな咄嗟には見分けつかないんですよ」
「雰囲気は全然違うからな」

 声を聞くだけで辛くなる。
 やっぱり、顔、見られない。
 でもどんなに目を逸らしても、鋭い視線が自分に注がれてるのがよくわかる。

「本、好きなの」
「え? あ、はい‥‥‥」

 外国語の本も嫌いじゃない。
 でもやっぱり親しみのある日本語の本が好きで、俺は今のうちに買い漁ろうと、気に入ったのを大量に籠の中に放り込んでいた。

「兄貴とは逆だな。あいつ、俺のストーカーしてる時散々俺が読んだ本読んだくせに、
 途中で断念しちゃったからほとんど覚えてないんだと」
「ああ、まああいつは、体動かす方が好きだから‥‥‥」

 居た堪らない。
 そもそも俺は、この人から逃げるために留学したのに、どうしてこんなことになってるんだ。
 この人と付き合ってるのは、俺じゃなくて率。
 そう、最初から、そうだったんだ。




「す、みません。俺もう行きますね、」







「『母を訪ねて海底二万マイル宇宙の旅』」








 背を向けた瞬間。
 聞こえたのは、覚えのある本の題名。
 思わず振り返ると、「あと『その時パンダは動いた』とか」と、その人は言う。


「読んだこと、ある?」
「な‥‥‥‥」
「すっげーマイナーな本なんだけど」


 ある。
 だって、それは。
 先輩が読んでいた本で。
 その後俺が、
 俺が、借りて読んだ、本。




 目が合ってしまった。




 全てを見透かすような瞳に、足が竦む。
 この人、一体、どういうつもりで、今そんな、ことを、







「‥‥‥‥‥‥‥‥‥ぁ」

「あっ! 高野さ〜ん!!」







 喉から引き攣れた音が出たけど、その上に、明るい声が被さった。
 誰かが、俺を見据えていたその人の手を取る。

「やっと見つけた!! も〜すぐいなくなるんだから」
「‥‥‥‥‥‥率」
「あ、律じゃん、偶然!! 何? 本漁りに来たの?」
「あ、ああそう」
「またそんなに買って‥‥‥‥‥まーお前は他にお金使わないからいいんだろうけど。じゃ、俺たちデートだからっvVvV」

 じゃあね、と率は手を振って、その人を引っ張っていった。

 ほっとした。
 同時に、泣きたくなった。
 ああ、馬鹿だ、俺。
 もう一年も前に終わったのに。
 忘れた気でいただけで、俺はこれっぽっちも、あの人を諦めきれてないんだ。











 兄と共有する名前を、俺にだけ呼んで欲しいなんて、

























 今すぐにでもあっちへ帰りたかったけど、断念した。
 理由は簡単、飛行機代がばかにならないから。
 往復の日をあらかじめ設定したのを買ってるから、修正もきかない。
 でもあと一ヶ月‥‥‥‥‥もたない気がする。
 俺は念じても念じても変わらない航空券の出発日時を睨みつけるのをやめ、ベッドに転がって盛大に溜息をついた。
 日本の友達に会うのはそれなりに楽しいけど。
 まさかたった一人のために、こんなにもあっちに戻りたくなるなんて、思ってもみなかった。


 その時。
 ノック音がした。


「律ー。いる?」
「いるよ」


 返事をすると、率が入ってきた。
 学ラン着てる。学校帰りみたいだ。

「いいよなー秋休みなんて。まだ秋でもないのに」
「あっちは秋だよ」

 懐かしい制服。
 あの人はもう高校を卒業して大学に入ってるから、もうこれを着ているのを見ることはないんだろう。
 懐かしい。
 涙が出そうなほど。

「‥‥‥‥‥あのさ、律」
「ん?」
「今日は予定あるの?」
「いや、今日はないかな」
「そっか」

 なんだろう、珍しい。
 声が沈んでる。







「‥‥‥‥‥‥率?」



「律。高野さんと一緒に、初めてご飯食べたとこ、覚えてるよね?」







「――――――!!!」







 覚えてるに決まってる。
 でも、なんで。
 なんで言うんだよ。
 言われなければ、このまま、忘れていられたのに。

 記憶が鮮明に脳裏を走る。
 店員さんの質問攻めにパニックになる俺に代わって、注文をしてくれて。
 先輩も同じ雑誌を買いに行くってわかって、宇佐見秋彦の話で盛り上がって、そのまま一緒に本屋へ行って。


「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥な、んで?」
「今日6時に、そこで待ってるからって、高野さんに言われた」
「お前が呼ばれたんだろ?」
「だって俺、店の名前ならお前に聞いて知ってるけど、場所までは知らないから」


 肩を竦める率を見て、愕然とする。
 どういうことだ。
 あの人が鎌かけたってことか?
 でも、だってあの人は、

「あのさ、律。高野さんは、俺とお前が別人だって気付いてるよ」
「な、‥‥‥‥そんなわけ」
「だってさ。一緒にいてもう半年以上経ってるけど、キスすらしたことないから」



 でもお前は先輩と、それ以上をしてるんだろ?
 俺は本読まないから、誤魔化すのはやっぱり無理があったみたい。



 そう言って笑う率は、少し寂しそうで。
 すっきりとした顔をしていた。


「じゃあ、伝えたから。ちゃんと行けよ」
「お、い、率―――――」
「お前さ、去年、フられたって大泣きしてたけど。そんなことないと思う。先輩は今でも、お前のこと好きだよ」


 ドアが、閉まる。
 俺は完全に思考がくちゃくちゃになっていた。
 だって、なんで、どうして。
 あの人が、俺のこと好きなんて、あるわけないじゃないか。
 あんな態度、とられたのに、



 時間は、5時過ぎ。

 俺は財布と携帯だけ持って、部屋を飛び出した。