なんの変哲もないファーストフード店。
でも俺にとっては、すごくすごく、大切だった場所のひとつ。
ちょうど放課後と夕食時が重なった時間帯だから、辺りは学生やらカップルやら主婦やらで混み合っていて。
それでも、見逃すはずがなかった。
腕組みをして柱にもたれて立っている、その人を。
まだ時間には、早い、はずなのに。
俺が息を切らしながら、少し離れたところで立ち止まると、その人はゆっくりと、俺を見た。
「来たな」
腕を解いて近づいてくる。
自分で来たくせに、逃げ出したいと本気で思ったけど、足が動かない。
きゅっと手を掴まれて、俺はびっくりしてそれを振りほどいた。
本来なら失礼な態度。
なのにその人は、破顔した。
「やっぱり、お前だ」
とろけそうな笑みは、ずっとこの人をつけ回していた俺ですら、初めて見るもので。
硬直していると、もう一度手を掴まれて、そのまま引っ張られた。
「あ、‥‥‥‥‥あの、たかのさ」
「いーから」
この人、こんなに力強かったのか‥‥‥‥?
こうもはっきりと、「離さない」っていう意思を示されたことなんかなかったから、俺は困惑した。
小走りになりながら、大きな背中に付いていく。
‥‥‥‥‥‥懐かしい。
付き合ってた頃も、こうだった。
隣を歩けなくて。
先輩は背が高くて足も長いから、歩幅が広くて。
こんなふうにいつも、追いかけてた。
あれ以来きっちり封印していたはずの気持ちが、呆気ないくらい溢れてきて、苦しくて泣きそうになった。
連れてこられたのは、アパート。
「入って」
ご両親離婚したって言ってたもんな。
今は一人暮らししてるんだ。
でもその部屋の中は、なんとなく見覚えがあるような気がした。
本棚に入りきらない本が、床にたくさん積み重ねてあって。
彼のスペースが広くなったというだけで、前の部屋と同じだ。
と、感傷に浸っていたのに、突然ベッドに放り出された。
「いった! な、ちょっ‥‥‥‥‥‥」
俺ははっと閉口する。
ぎし、と、スプリングが軋む。
すごく、覚えのある、体勢。
「た、高野さん‥‥‥‥っ」
「お前さ。なんであいつと入れ替わったわけ?」
「は? な、何が」
「誤魔化せると思うな。わかるに決まってんだろ。ある時期を境に突然饒舌になって挙動不審にならなくなって、
唯一共通の話題だった本の話ができなくなったんだぞ?」
どう考えてもおかしいだろ、と、その人はのたまう。
さ、嵯峨先輩って、こんな人だったっけ?
でも、わかる。
この人は俺の好きだった人だ。
三年も追いかけて追いかけた人を、間違えられるわけがない。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥だって先輩、俺のこと、好きじゃなかったんでしょ」
「はあ?」
「お、俺が『俺のこと好きですか』って聞いたら、鼻で嗤ったじゃないですか」
「‥‥‥‥‥なんの話だ」
「な、なんの話って、あんた‥‥‥‥!!!」
「そんなことした覚えはない」
どの口が言いやがるんだこの野郎!!!
俺は腹を立て、圧しかかって余裕かましてるその人を精一杯睨みつける。
本気度が少しは伝わったのか、その人は少し考えて。
「もしかして、お前が俺に回し蹴りして出て行って、しばらく音信不通になった時か?」
「ええそうですよ」
「‥‥‥‥お前さ、俺に馬鹿にされたと思い込んで逃げて留学行ったのか? それでその間に兄貴の方がお前のふりして近づいてきたとか?」
「そうなんじゃないですか」
「‥‥‥‥‥‥‥馬鹿じゃねーの?」
かっとした。
俺がこの一年、どんな思いでいたか、この人は知らない。
知ったフリされてたまるか。
俺がどんなに、
どんなに、
「‥‥‥‥‥もういいです」
「は?」
「馬鹿でもなんでもいいです、離してください。帰ります!!!」
俺はその人を突き飛ばしてベッドを抜け出そうとする。
でも重力も味方につけてるその人は、暴れる俺を押さえつけて離してくれない。
「律。落ち着け」
「嫌だ、離せ‥‥‥!!!」
「律、」
ばちん!!
一瞬自由になった手で、俺はその人のほっぺを、思いっきりひっぱたいた。
さすがに予想外だったのか、目が見開かれる。
力が抜ける。
俺は急いでその人の下から逃れた。
玄関へ走りながら思う。
デジャビュだ、と。
あの時先輩は、俺を追いかけてなんか来てくれなかった。
だからあれが答えなんだとわかって、胸が張り裂けそうなほど辛かった。
もういいんだ。
この人とはこういう運命なんだ。
俺は、
「律!!!!」
ドアノブに手がかかりそうになった、瞬間。
後ろから抱きしめられて、俺は度肝を抜かれた。
慌てて押しのけようとするけど、逆に正面を向かされて、抱きすくめられてしまう。
「っちょ、‥‥‥‥や、嫌だ、高野さん!!」
「好きだ、律」
ずっと、ずっと、欲しかった言葉。
そんなの今更、受け入れられるはずがない。
「やめてください、っ離してくださ」
「好きだ、律、好きだよ」
「嘘つき!!!」
いらない。
もういらない。
もう遅いよ。
一年前、言ってほしかった。
俺があなたを信じていた時に。
「好きだ‥‥‥」
「ふ、ふざけないでください、去年は一言も、そんなこと――――――!!!」
「ああ、そうだな。反省してる。だから言ってるんだ」
好きだ。
低い声が、鼓膜を揺らす。
心まで揺さぶってくる。
俺はそれでも、必死に抵抗した。
自分が泣いていることにも気付かなかった。
「俺は、あんたなんか好きじゃありません、もう、誰も好きになんかなりません!!!」
「律」
「またあんな思いするくらいだったら、もう、俺は‥‥‥‥っっ!!!」
離して。
どうして、離してくれないの。
俺はもう体力的に限界で、その場にへたり込む。
その人の胸に顔を押しつけられたまま、泣きじゃくりながら、俺は余力を振り絞ってその人を拒絶する。
「いや‥‥‥‥も、やだ‥‥‥‥ふぇ、」
「律‥‥‥‥」
頭を撫でる、やさしい手。
この人のにおいがする。
大好きだった。
でも、もう、好きになんかなれるはずが、
「‥‥‥‥お前さ、高校の時、俺が『なんで俺のことそんなに好きなの』って聞いたら、『話すと三日くらいかかります』って言ってたよな」
「‥‥‥‥‥」
「今、お前が俺への恨み言吐き出すとしたら、どれくらいかかりそう?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥十日は難いです」
「そっか。じゃあそれ全部、俺に言い尽くせ。いくらでも聞いてやる」
「‥‥‥‥‥」
「そしたらもう一回、俺と付き合ってくれるか?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥そんなの」
「いくらでも待ちますよ。お前がまた、俺を好きって言ってくれるまで」
そっと、体を離される。
いつまでも止まらない涙を拭われる。
そしてその手が、頬を包んだ。
「―――――――‥‥‥‥!!」
顔を寄せられ、反射的に目も口も固く閉じてしまう俺に。
その人は軽く唇を触れ合あわせてから、心底愛おしそうに微笑んで。
「律。口開けて?」
ああもう、本当に、俺は馬鹿だ。
またあんなことがあったら、俺の精神はひとたまりもないだろうに。
なのにこの人を拒むことなんか、俺には到底出来なくて。
――――――そのキスは、俺のひねくれた思考を全部掬い取ってくれるように、やさしく、激しかった。
いろいろあったけど、俺は留学期間がもう一年あるから、こっちに戻ってきた。
高野さんのことは何回も困らせて、傷つけて、逃げ回って、でもその全部を愛してくれるから、俺は観念して白旗を揚げた。
連絡を取ってくるのは、相変わらずあっちからの方が断然多い。
バイトが忙しいらしくて、メールが増えたけど。
でも俺も、クリスマスイブの彼の誕生日には自分からテレビ電話をかけて、おめでとうって言って、結局三時間くらい話し込んでしまった。
まあ、これでいい‥‥‥‥のかな。
というか、もし悪くても、後戻りできそうもない。
ブーー
不意に、チャイムの音がする。
「はーい」
誰だろう?
俺は読みかけの、日本から持って来てた本を置いて、玄関へ向かう。
ドアを開けて、真っ先に目に飛び込んできたのは、赤いバラの花束で。
目の覚めるようなそれの持ち主を、俺は見上げた。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥え?」
「お前の誕生日祝ったことなかったからな。今日から三日間、たっぷりお祝いしてやる」
不敵な笑みを浮かべていた彼は、呆けた俺を見て、やさしく咲った。
「誕生日おめでとう、律。愛してる」
「た、‥‥‥‥‥かの、さ、」
べそをかきながら抱きついた俺を、しっかり受けとめてくれたのは、紛れもなく、俺の初恋の人で。
俺はもう、恋はしない。
この初恋にずっと胸を痛め続けるんだろうから。
そしてこの痛みは、この人の隣で、きっと一生輝き続ける。
Twinkle, Twinkle, Little Love