最悪だった。


 何もかもが。






 行方知れずになってからも、俺は律を想い続けていた。
 しばらく四国にいたから、もうあれから数年経ってしまってるし、捜すのはかなり難しくなってるけど。
 それでもあいつを忘れたことなんかなかった。


 好きで、好きで、
 本当に好きで。


 また会えたらやり直せると、無条件に信じていた。






 そしてついさっき、あいつの消息が知れた。

 ガキの頃から婚約者がいて、今は彼女もいるという、知りたくもなかった情報と一緒に。



 奇しくも今日は、俺は父親だと思っていた人と血が繋がってないって、わかったばかりで。











 最悪。










 他に形容のしようがない。
 別に父親のことなんかどうとも思ってなかったけど、血の繋がりだけはあると、疑いもなく思っていた。
 だからあんな瓦解した家でも、これが俺の“家族”というもののあり方なんだと諦めと悟りを持っていた。

 それなのに。
 それなのに俺たちは、“家族”ですらなかったのか。







 俺の存在意義はどこにある。
 俺の存在価値はどこにある。
 俺の存在を、誰が認めてくれる?

 流れる血の半分が、どこの誰に与えられたかもわからない俺を。

 唯一心を許したヤツに、最初から裏切られていた、俺を。



 俺は本当に、この世界に存在してるんだろうか。











 俺が消えたところで、誰もそれに気付いてくれないんじゃないか。





























「あ、あの!!」





























 突然。

 腕を引っ張られて、我に返った。
 振り返ると、さっきすれ違った気がする、髪の色素の薄い男。
 そうだ、今さっき肩がぶつかって、すみませんと口走ったんだ。
 現実がのろのろと頭に入ってくる。

 しかし、こいつは俺に、一体なんの用があるんだ。謝っただろ。







「あの、えっと、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥大丈夫、ですか?」

「‥‥‥‥‥‥‥は?」







 大丈夫?
 別にそんな激しくぶつかったわけでもないだろ。
 真意を探ろうとするが、今の俺は、そいつの輪郭すら捉えられていなかった。
 でも知り合いじゃないはずだ。
 今俺の知り合いといえば横澤くらい。
 あとは名前も知らない女とか。
 なんとなく物腰のやわらかそうな雰囲気は、俺の周辺とはほど遠いもので。



「‥‥‥‥‥す、すみません。いきなり変なこと言って」



 なんなんだ、こいつは。



「‥‥‥‥‥‥」
「あの、‥‥‥‥これ、よかったら使ってください」


 握らされたのは、青と水色のチェックのハンカチだった。
 俺にこれをどうしろって言うんだ。
 よくわからないうちに、そいつはぺこりと頭を下げて、背中を向けて行ってしまった。



















 アパートに戻り、俺はとりあえず洗面所に向かう。
 鏡に映るのは、いつも通り、無表情な自分の顔。
 なのにあいつは初対面の俺に、なぜかハンカチを渡した。
 俺の思考なんか読めないはずなのに。



“嵯峨先輩”



 あいつみたいに。



“最近、先輩なんかすごく辛そうだったから”



 あいつは俺のことなんか



“なんでも俺聞きますから、話してください”





























「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥律」





























 なあ、律。
 嘘じゃなかったんだよな?
 お前俺のこと、好きだったんだよな?



 ストーカーして、
 俺が読んだ本全部探して読んで、
 いきなり告白してきて、
 挙動不審で、
 酷いこと言っても変わらなくて、
 俺のこと一番考えてくれて、
 俺に抱かれて痛い癖に「先輩だから大丈夫」って言った、お前は。







 俺のこと、本当に、好きだったんだろ?







 教えろよ、律。







 もう一回でいいから、俺の前に現れて。

 そしてもう一回でいいから、俺に好きって言ってくれ。

 お前じゃなきゃ駄目なんだよ。

 そうしたのはお前だろうが。

 なんで、なんで。



「律‥‥‥‥‥‥律、律」



 その場に頽れて、俺は泣いた。
 他の誰でもない、あいつがほしかった。



 見ず知らずのヤツにもらったハンカチ。
 なのに、あいつのにおいがするような気がした。







 俺はおかしい。
 きっともう壊れてしまったんだ。
 そんなこと、有り得ないのに。











「律‥‥‥‥‥‥‥‥」











 どうして、もう少しでいいから、一緒にいてくれなかったんだよ。



















「律、好きだ‥‥‥‥‥‥好きだ、」



















 まだ、言ってなかったのに。
 こんなに好きなのに。




 お前のことしか、考えられないのに。



















 苦い思い出の染みこむハンカチ。
 通りすがりの人間にもらっただけだから、返そうにも返せない。
 だから俺は、これを愛用するようになった。
 俺にくれなかったら、あいつがそのまま使ってただろうから、代わりに。
 せめてもの恩返しだ。
 俺は酷い生活をしたけど、精神が壊れるまでいかなかったのは、多分あの時もらった純粋なやさしさのお陰だから。







「あれ? 高野さん、そのハンカチ‥‥‥‥‥」
「ん?」
「なんか高野さんっぽくないですね」




 確かに、俺は柄入りとかあんまり好きじゃない。
 一緒に洗濯物を干していた律が、興味があるのか広げられたそれに触れる。

「随分前にもらったんだ」
「誰にですか?」
「全然知らない人」
「どういう状況ですかそれ」
「さあな。俺も未だによくわかんねーけど」

 へえ、と律はなんの変哲もないハンカチを眺めていた、が。


 不意に、元々大きい目が見開かれた。


 ある一点だけを凝視して。




「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥あ、の、たかのさん」
「どうした?」
「これ、くれたのって、もしかして‥‥‥‥‥‥‥‥道ばたで肩ぶつかった人じゃ、ないですか」
「え?」




 なんでお前が知ってんだよ。
 よくわからないまま、俺はそいつの視線の先を追う。

 全然気付かなかったが、ハンカチの端に、小さく刺繍が入っていた。
 子供がなくさないようにつけるとかそういうレベルじゃもちろんなく、これ結構高いものなのかもしれない。


 イニシャルらしき、流れるような “R.O.” の文字。



























 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥イニシャル?




















 俺たちは唖然として、お互いの顔を見つめた。






動き始めた時計を二人きしめて