ベッドに押し倒して、キスをする。
 特に珍しいことでもなんでもない、のだが。
 今回の俺たちは逆だった。



 俺が上で、高野さんが下。



 さすがに驚いたみたいで、高野さんは俺の両手の間で、目を瞬かせる。





「‥‥‥‥律?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥あんたは俺のなんじゃないんですか」





 掠れそうなほど低く、不機嫌な声。
 あまりに単純で馬鹿で愚かで、自分でも呆れるくらいだ。
 わかってはいても、全く余裕のない俺がいる。

 高野さんも、俺の睨みに自己嫌悪が混じっていると気付いたのか、手を伸ばして髪を軽く掻き上げてくる。
 質問に対する返事ももらってもいないのに、それだけで少し気持ちがやわらぐから不思議だ。


「そんなの、聞くまでもないだろ?」
「‥‥‥‥‥」
「もう十年以上引きずってんだ。俺の人生も価値観も全部お前が掻っ攫ってったようなもんだろうが」




 何を今更。




 そう言外に、それでいて雄弁に語るこの人は、イラッとするくらいふてぶてしい。
 でもそれでこそ、俺の知ってる高野さんで。
 この人はやっぱりこの人だとほっとしたけれど、今度は攻撃的な感情が下火になり、不安が大きく表に出てしまう。

 目聡い高野さんが気付かないはずがない。
 ベッドで仰向けになったまま、圧し掛かる俺の顔をやさしく撫でて、「どうした?」と聞いてくる。
 俺にしか見せない、心底愛おしそうに細められた瞳。
 でも今は、素直に微笑み返すことなんかできない。















「‥‥‥‥‥‥‥‥俺のだっていうなら、何、勝手に怪我してんですか」















 少し赤くなっている左の頬に指を触れる。
 すると、高野さんはああ、って納得顔をした。


「見てたのか」


 見てたけど、多分途中からだ。

 俺より少し早く退社した高野さんを追いかけてたら、駅前で、髪を盛ったミニスカートの派手めな女の人に、
 高野さんが頬をひっぱたかれていた。

 女の人は何か吐き捨ててから、憤然と踵を返し去っていく。
 高野さんは一瞬佇んだものの、何事もなかったように、またそのまま駅へ歩き出した。


 それだけといえばそれだけのこと。
 でも見ず知らずの人間を、いきなり渾身の力でひっぱたいたりしたいはずだ。
 そして見ず知らずの相手なら、それを甘受したりしないはずだ。
 ということは高野さんとあの女の人に、なんらかの面識があったということ。











 むかつく。


 そんなことしていいのは、
 それくらい近くにいるのは、
 俺だけのはずなのに。











 また怒りがこみ上げてきて、ぐっと眉に皺が寄る。
 高野さんは少し言葉を探すように、真顔になった。


「‥‥‥‥あの女と、昔付き合ってたらしいんだけどな」
「‥‥‥‥‥‥‥‥なんですか、“らしい”って」
「そう。そう言われて殴られた」


 全くもって覚えてないみたいだ。
 でもそれってどういうことだ。
 あの人がその程度っていうこと?

 それとも、記憶の中に似たような人がいっぱいいるっていうこと?

「‥‥‥‥なあ、律」
「‥‥‥‥‥‥」
「お前さ、俺といなかった十年で、何人と付き合った?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥あんたよりは少ないです」
「‥‥‥‥‥‥‥ま、そうだろうな」

 否定しろよ馬鹿。
 それがこの人の誠実さだとわかっていても、下手に隠されるよりマシだとわかっていても。
 しんどいものはしんどい。

 涙が溢れそうになって、俺は慌てて唇を噛んだ。
 ああでも、駄目だ。
 高野さんの顔が、苦しそうに歪む。

「‥‥‥‥‥律」
「あ、そうだ」

 誤魔化しきれないとわかり、俺は逃げを打つことにした。

「お風呂、まだ沸かしてなかったですよね? 俺スイッチ、うわっ!?」




 起き上がろうとしたのに、腕を掴まれたと思ったら強く引かれて。
 高野さんの胸に顔を押しつけるような形で、抱き込まれた。
 背中に回された腕は痛いくらいで、
 それなのに、髪に触れている手はやさしくて。
 煙草のにおいと高野さんのにおいに包み込まれるような錯覚に、俺は涙腺が決壊するのを感じる。


「‥‥‥‥‥たかの、さ‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥ごめんな、律。お前がそんなに悲しむってわかってれば、‥‥‥‥‥‥お前とまた会えるってわかってれば、
 十年でも二十年でも、待ってたんだけどな」


 それは今となっては言い訳でしかない。
 でもその「もし」が叶っていたなら、きっとこの人は言葉通り、一人で俺を待ち続けたんだろう。
 口調は静かだけど、滲む後悔の念があまりに深くて、居た堪らなくなる。

「‥‥‥‥‥も、いいです。謝らないでください」
「律、」
「元はと言えば‥‥‥‥‥‥‥勘違いしてあんたから逃げた、俺が悪いんですから」

 何度嚥下しても、えぐみが薄れない過去。
 この人はやさしい。
 俺だったらきっとそんな人間、二度と好きになんかなれない。

「お前、‥‥‥‥‥‥‥そんなふうに思ってるのか」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」

 少し驚いたような声がする。
 確かに、こんなふうにあの時のことを言うのは初めてだ。
 どういう反応が返ってくるか未知で、俺が体を強張らせると、高野さんの心臓の真上に耳を押しつけていた俺の顎に手が触れた。
 促されて、ちらりとその人の顔を窺うと、真剣な瞳にぶつかる。


「律。お前に何も言わないで勘違いさせるようなことした俺も悪い。だから、そんなふうに考えるな」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥でも」
「でもも何もあるか。お互いガキだったんだよ。十年、ずっと辛かったのは、俺もお前も同じだ」


 このぽっかりと空いてしまった虚しさは、いつか埋まるんだろうか。
 こうして一緒にいれば、いつかはえぐみも消え、ただの思い出になってくれるんだろうか。







「好きだ、律。体の関係あったヤツは確かに一人や二人じゃない。でも十年以上前からずっと、俺にはお前しかいねーよ」
「‥‥‥‥‥‥‥」
「馬鹿みたいな嫉妬してんな。心配しなくても、俺はお前のだ。堂々としてろ」







 わかってる。頭では理解してる。
 でもね、高野さん。
 俺はそれを丸呑み出来るほど、大人じゃないんだよ。



 カオスと化した思考を持て余していると、不意にぐいっと、体を上にずらされる。
 我に返った時には、高野さんの顔が、鼻が触れ合いそうなほど近くにあって。











「ぁ、」
「なあ律。さっきのキス、お前からしてくれた最初のキスだよな」
「‥‥‥‥‥‥そ、うですかね」
「そう。すっげー嬉しかった。もっかいして?」











 そんなふうにやさしく咲われてしまうと、弱い。
 でも頬に両手を添えても、雰囲気が読めないのこの人はじっと俺を見たままで。

「‥‥‥‥高野さん」
「なに?」
「目閉じたらどうですか」
「目開けたままキスしたことあるじゃねーか」
「‥‥‥‥‥‥‥言うこと聞けないならしませんよ。俺は別にいいですけど」
「わかったわかった」

 いかにも仕方なしという感じで、高野さんは瞼を下ろす。
 眼光鋭い瞳が見えなくなるだけで、随分印象が変わる。
 むかつくくらい顔整ってるよな。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

 やばい、緊張する。
 さっきもしたけど、あれは逆上してたから、勢いでできただけで。
 こんな改まってしろって言われると‥‥‥‥‥‥‥‥

「‥‥‥‥‥って、ちょ!! 高野さん!!」
「んー」

 俺の意思なんかガン無視の両手が、俺の顔に触れる。
 目をつむったまま、その人はにやついて。

「なに、この状況。生殺し?」
「は? あの」
「寸止め放置とはいい度胸だな」
「ちっ違います!! いいから大人しくしてろ、腰砕けにしてやる!!!」
「へー。どうぞ」

 むかつく‥‥‥‥‥ッッ!!!
 イラッときた俺は、何がなんでもへろへろにしてやると決意し、弧を描く唇に唇を押しつけた。
 舌を強引にねじ込ませようとしたら、あっさり引き入れられる。



「ん‥‥‥‥‥、」



 濡れた舌の絡む音が、やけに響く。
 高野さんの手が、いつの間にか俺の頭に回ってる。
 その感触がなんだかくすぐったくて、俺はその人の口内を散々舐ってやった。



「‥‥‥‥‥‥‥‥は」



 結構な時間、キスに溺れた。
 気持ちいいけどさすがに顎が疲れてきて、俺は少し顔を上げる。
 重力に逆らうのも一苦労だ。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥どうですか」
「よくできました」

 下手くそって口か態度で言われたら家に帰って引きこもってやろうと思った。
 でも高野さんは、意外なくらい幸せそうな表情をしていて、一瞬固まる。



「律」
「は、はい」
「ちょっと、嬉しかった」
「何がですか?」
「一人で考え込む前に、俺のとこ来て、あの女誰だって聞いてくれて」



 成長したな、偉い偉いって頭を撫でられる。
 完全に子供扱いなのに、俺は少し誇らしかった。


 俺たちはもう、あの時とは違う。
 俺はちゃんと、この人を信じられてる。
 少なくとも、一発で勘違いして逃げたりしない程度には。


 でもそう簡単に機嫌は直してやらない。

「‥‥‥‥‥‥言っときますけど、俺はまだ、許したわけじゃありませんからね」
「はいはい。一緒に風呂入ってやるから」
「なんですかそれ」
「なに、もっとすごいことしなきゃ駄目って?」
「違いますよ、どこ触ってんですか」

 おいたを働こうとする手をぺちっと叩き、俺はのそのそと起き上がった。
 ベッドを降りて、寝転がったまま俺を見る高野さんに目をやる。







「何してんですか? お風呂入るんでしょ」







 手を伸ばすと、高野さんはふわりと微笑んで。
 体を起こすのを手伝ってあげた俺は、そのまま胸に抱き込まれる。

「じゃあ、風呂沸くまで、テレビでも見ながらコーヒー飲むか」
「仕事持って帰ってるんじゃないんですか」
「ねーよ。お前とのんびりしたかったから全部終わらせてきた」

 糖分補給にプリンでも作っといてやろうと思って先出たんだけどな、と言われて、
 高野さんが俺を待たずに帰った理由をようやく知った。



 嬉しい。
 この人の世界の中心は、俺なんだ。















「おいで、律」















 嫌な気持ちも、過去のえぐみも、この人に与えられるそれ以上の幸せが、何度でも何度でも上書きしていってくれる。
 俺はもう、この手を自分から離したりしない。







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