咄嗟に、意味がわからなかった。
でも反射的に伏せがちだった顔を上げる。
その人の雰囲気はいつの間にか、まるで別人みたいになっていた。
さっきみたいな些細な変化じゃない。
眉間に皺を寄せ、俺を睨みつける。
「――――――――――やっぱりお前か。織田律」
“織田律”は、俺のペンネーム。
本名はさすがにやめておこうと思ったもののいい響きが浮かばなくて、
中高の時先輩に俺がストーカーと気付かれないように、貸し出しカードに書き入れていたその名前を使った。
今となっては“織田律”は表用の名前だ。
知ってる人は知ってる。
「‥‥‥‥‥‥‥‥あの、高野さん?」
「お前その名刺見て、何も気付かなかったのか」
「え?」
高野さんは雰囲気も口調もがらりと変わってて、俺は混乱したまま、テーブルに置いていた名刺に目をやる。
丸川書店エメラルド編集部編集長、高野政宗。
なんの変哲もない。
ただ名前は確かに、珍しい―――――――――――――けど、
「親が離婚して、名字変わってるから。旧姓は嵯峨」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥は、?」
いや。
いやいやいや、有り得ないだろ。
嵯峨?
嵯峨、政宗?
ぐ、偶然‥‥‥‥‥‥‥‥?
「今さっき喋ってたのって俺のことだろ」
「へ? あ、あの‥‥‥‥‥?」
「遊ばれたってなんの話だ。人に回し蹴りして次の日から消息不明になっといて」
冗談‥‥‥‥だろ。
冗談だよな?
「だ、だって『俺のこと好き?』って聞いたら、鼻で嗤った‥‥‥‥‥」
「んなことしてねーよ。したとしてもただの照れ隠しとかだろ」
ちょ、ちょっと待て。お願いだから待ってくれ。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ホントに‥‥‥‥‥‥嵯峨先輩、なんですか‥‥‥‥‥」
後生だから、誰か夢だと言ってくれ。
「あれからずっと捜してた。でもお前の実家も知らねーし、どうしても見つからなくて‥‥‥‥‥
だから大学の時、本屋で新人の少女漫画家“織田律”のフェアやってた時は、マジでびっくりした」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥っ、」
「俺が少女漫画の編集になったのは、お前に会うためだ。どうしても確かめたかった。お前が、あいつなのかどうか」
目の前にいるのが、他でもない十年前の初恋の相手?
俺を捜してた?
俺に会うために少女漫画の編集になった?
鼻で嗤ったのが、照れ隠し‥‥‥‥‥‥‥だった?
俺の思考回路は完全にパンクしていた。
だからその人が席を立って俺の方に回り込んできたのも、見てはいてもわかってなかった。
「っうわ、!!?」
もやもやしてたのが強制的に吹っ飛ばされる。
ようやく認識できた視界には、高野さんと、天井。
俺はソファに押し倒されていた。
「っちょ、な、なに、高野さ‥‥‥‥‥っっ!!」
「‥‥‥‥‥長かったな、十年。会えちまえばあっという間だった気もするけど」
「離してください!! ていうか、たとえあれが誤解だったとしても、もう十年も前の話でっ」
「ああそうだな。じゃあこれからの話をするか」
暴れても暴れても、どうしてもその人の下から抜け出せない。
それどころか両手首を片手で纏められてしまい、空いた手が俺の顎を掴む。
目が合った。
忘れよう忘れようとしてきたから、俺は先輩の顔もろくに覚えてない。
だけどそんなもの飛び越して強い瞳に射抜かれて、体が竦む。
「俺がお前に会いたかったのは、どうしてもお前を忘れられなかったからだ。でも今日実際に会って、俺は今のお前に惚れ直した」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥は?」
「お前が好きだ」
ふ、ふざけんな!!!
「何言って‥‥‥‥からかうのもいい加減にしてください!!
大体なんですかっ惚れ直したって、まだ会ってから一時間も経ってなっ」
「お前だって昔、一言も会話したことない俺に好きって言っただろーが」
「そ、それは‥‥‥‥‥‥!!!」
それとこれは違う。絶対に違う。
でもどう反論すればいいのかわからない。
どうしよう、怖い。
この人の真っ直ぐな視線が、言葉が。
ずっと封じてきた気持ちがこじ開けられそうになる感覚は、恐怖でしかない。
俺は逃れるまでいかなくても、なんとか身をよじってその人を視界から消した。
それでも声が追いかけてくる。
「好きだ、律」
「‥‥‥‥‥‥っ今更‥‥‥‥‥っっ!!!」
「律‥‥‥‥」
やさしくなだめるように名前を呼ばれて、泣きそうになる。
お願いだからやめてくれ。
壊れてしまいそうだ。
その時、この緊迫した空気の中、間抜けなくらい明るい音楽が聞こえてきた。
はっとして時計に目をやると、いつも閉まっている小窓が開いてメロディが流れている。
仕事をしてると集中して時間感覚がなくなるから、時計は一時間毎に結構うるさい音を出すやつを使ってる。
それが俺たちを現実に引き戻してくれた。
「‥‥‥‥‥チ」
どうやら彼は用事があるらしい。
時刻を確認して小さく舌打ちすると、俺の上からどいた。
ああ、助かった。
絶対的な圧迫感がなくなり、俺は心の底から安堵しつつ上半身を起こす。
でも俺のほっとした顔が気にくわなかったらしい。
荷物を纏めたその人は、つかつかと俺に近寄ってきて。
完全に緊張を解いていた俺の後頭部を引き寄せて、俺の唇に自分の唇を押し当ててきた。
俺は何が起こったかすぐにはわからなくて、近すぎてぼやけた端正な顔を、唖然として見つめることしかできなくて。
結局なんの抵抗もできないまま、その人が離れていく。
「‥‥‥‥‥‥‥え゛? な、え、ちょ‥‥‥‥‥‥っっ」
再びパニックに陥る俺に背を向けたその人は、しかし部屋を出る直前、振り向いた。
そして、はっきりと宣言する。
「もう一回俺を好きにならせて、絶対に好きって言わせるからな」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥は、はあ!!?」
「逃げんじゃねーぞ、つか逃げても無駄だ。地獄の果てまで追っかけてまたとっ捕まえてやる」
冗談‥‥‥‥とは思えない鬼のような形相。
ばたんと、ドアが閉まる。
これが夢なら、とにかくさっさと目覚めてほしいと、俺は必死になって祈った。
この有り得ない再会の後、俺たちがどうなるか、なんて。
確信じみた自信を持つあの人も、
拒絶以外に選択肢なんかない俺も、
まだ誰も知らない。
Von Hier an Blind
(その先を創るのは、否応なしに、俺たち二人)