「織田先生の漫画、最近雰囲気変わりましたね」







 そう言われる度、俺の機嫌は地に落ちる。



















 夢を、よく見るようになった。
 辻褄の合わない不可思議な夢じゃなくて、昔の夢。
 まるでピンポイントで捉えたみたいに、同じ時期の夢。

 俺が多分、人生の中で一番純粋で。



 一番、世界が輝いて見えた頃の夢。





























“嵯峨先輩”





























 俺は、あの人の言うことに過剰に反応しすぎなんだ。
 自分でも思う。
 あの人が語った昔話。
 俺には覚えてないことが多すぎた。
 故意であることは否定しないけど、自己防衛のためにそうしたまでであって、それを誰かにとやかく言われる筋合いはない。


 だけど。


 そうさせた、まさに張本人が、ひどく悲しそうな顔をして。


 頭を離れない。











 それからだ。
 不意打ちでキスされれば、初めてキスをしてセックスした時のことが、眠りに落ちた意識の中で無駄に鮮明に再現されたり。
 そういやお前に傘届けてもらったことあったな、って何気なく言われて、
 そんなことするわけないじゃないですかって鼻で嗤ったその日に、夢に出てきたり。
 忘れたかった、忘れたはずの記憶がどんどん掘り起こされる。
 高野さんのせいで。







 ストーカーまがいの事をした。
 先輩とファーストフードの店に入った。
 先輩を図書室で待った。
 先輩の背中を見ながら歩いた。
 先輩の部屋は本が平積みになっていた。
 本が傷むのになんで?
 もしかして今も?



















「‥‥‥‥‥‥‥あー、もー‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」



















 なんなんだよ。
 なんでまたあの人のことばっかり考えてるんだよ俺の脳みそは。
 これじゃ昔と、
 高校の時と、
 先輩が大好きだった時と、同じじゃないか。











 望んでなんかいないのに、俺は確かに、何かが変わってしまったらしい。

 それが漫画にも出てしまってる。

























「とりあえずって感じだけど、少女漫画らしい少女漫画描くようになってきたな、お前」

























 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥この人に言われるのが一番むかつく。

 ネームチェックしている高野さんをじろりと睨む。







「そうやって言われるの、すごい嫌なんですけど」
「何言ってんだよ少女漫画家が」
「俺、いかにも少女漫画っていう少女漫画好きじゃないんで。多分、だから俺、少女漫画家やってるんだと思います」







 それは最近気付いたこと。
 何もしてない主人公がイケメンな男の子たちに好かれまくってふらふら揺れ動いたり、
 割と平凡なのに美人な友達を制する形で彼に選ばれたり。
 そもそも、ずっと好きだった人もずっと自分を好きだったなんて有り得ないだろ。
 僻みだってことくらい、もちろんわかってるけど。
 実際の恋にいい思い出がなさすぎて、読めば読むほど虚しくなるんだ。
 だからそうじゃない、好かれない現実や毒がいっぱいの漫画で、一矢報いてやりたいと思って。
 だから、俺は未だに少女漫画家っていうのを続けてるんだと思う。
 まあ、異端視覚悟で描いてたのに、ベタな甘さに疲れた少女漫画愛読者が癒しを求めて俺の漫画を読んで結果人気が出てるなんて、
 ものすごい皮肉な状況になってるわけだけど。


 という俺の弁論を、珍しく遮らずに聞く高野さんは、気がつくとものすごく微妙な顔をしていた。











「‥‥‥‥‥でも、お前の漫画、本当に変わったと思う。あのバレンタインのやつ以降」
「っあ、あれは‥‥‥‥‥‥」











 あんたが変なこと言うから。



 なんて言えるわけがなくて、俺は半端なところで黙り込んだ。

 だって、あの時は本当に驚いたんだ。
 嫉妬、なんて言葉が、高野さんの口から出るとは思わなくて。
 非常に残念なことに俺の場合、恋愛イコール高野さんだから、高野さんにそういう感情がなければ俺にはそういう概念もなくて。
 だから、あの時。
 苦しそうな自嘲の笑みに、肝を潰した。
 そのせいで変な夢を見たんだ。
 昔の夢。
























 前の彼女と別れた時の。
























『私は律が好きだから、律の一番じゃなきゃ嫌なの』





























 だから別れたい、と彼女は言った。
 一緒にいて楽しかった。
 そして、確かに好きだった。
 でもそれは、キスがしたいとか、体を繋げたいとか、そういう意味の「好き」じゃなかった。















『その人の一番じゃなきゃ嫌な気持ち、律だってわかるでしょ』
『え、』

『律だって、好きな人がいるんでしょ?』















 否定、できなかったんだ。

 夢の中ですら、否定することができなくて。

 結局そのまま目が覚めた。



 そんな状態でプロットを考えて、彼女の台詞がぐるぐるする頭であの漫画を描いて。
 あれから、毎日のように高校時代の夢を見るようになった。
 十年も前の、それでいてやけに鮮明に思い出された“幸せ”という感覚のせいで、作風も変わってしまった。
 俺、もっと冷めてたはずなのに。
 もうあんなのいらないって、確かに思ったのに。
 めちゃくちゃ泣いて、苦しい思いをして、もう誰も好きになんかならないって決めたのに。
 そんな簡単にぶれるような気持ちじゃなかったはずなのに。







「おら、ちゃっちゃと描け律」
「‥‥‥‥‥‥‥‥名前で呼ばないでください」







 夢を見てしまうから。





















 あぁ、また夢だ。



 眠りの中で俺はげんなりしていた。
 しかもまた、夕暮れの図書室。
 もうそのイメージが頭に張り付いてしまっていて、
 現実でもプロットとか連載とかで図書室を無意識に入れてしまいそうになって、慌てて方向転換してるっていうのに。

 今度はなんだろう。
 ああもうさっさと覚めてくれっていう俺の意思に関係なく、視界が静かに流れる。
 見慣れた本棚の並び。
 その中の、一冊の本に目が留まる。
 それは棚の一番上にあった。











 あれ?











 いくら手を伸ばしても、触れはするものの、取れない。
 なんで?
 こんなに高かったっけ、本棚。
 ちゃんと届くはずなのに。
 確かに中等部に入学してすぐは届かなかったけど、



 ふと、今自分が着てる服に意識がいった。



 この袖。
 学ランじゃない。











 中等部のブレザーだ。











 気付いた瞬間、本からずるっと手が滑り、多々良を踏んで。
 誰かにぶつかって、止まった。

 謝ろうとして振り返って、





























 息が、止まった。





























 そうだ、俺。

 この時、嵯峨先輩に初めて会ったんだ。







 それでこの時、完全に、一目惚れをして。



















 俺は、























 すぅ、と意識が吸い上げられるような感覚。
 なんだか枕が固くて、俺はのろのろ目を開けた。











「ああ、起きたか」











 頭上から声が降ってくる。
 なんだろう、なんかすごいあったかいし、気持ちいいんだけど‥‥‥‥‥‥























 ――――――――――――――――――――――って!!!























「なんであんたがいるんだーーーー!!!」
「担当編集に向かってそれはねーだろ」















 そういう問題じゃない。断じてそういう問題じゃない!!!
 なんで俺はあんたに膝枕なんぞされてるんだ!!!
 担当編集だっていうなら、毛布かけてくれるだけでいいだろ!!!
 しかも本読んでるとか、自分の家でもないのにまったりしすぎだから!!!

 最悪な目覚めに、俺はソファから起き上がることもできずに、ずきずきしてきた頭を押さえる。
 ていうか俺、今の今まで肩ぽんぽんされてたよな‥‥‥‥‥‥
 寝心地がいいと感じてしまった五分ほど前の自分を蹴り飛ばしてやりたい。思いっきり。



「あれ? ていうかアシさんたちは‥‥‥‥‥」
「俺と入れ替わりで帰った」
「あんたはなんでいるんですか」
「メシ作りに来てやったんだろ」
「時間の無駄遣いしてないでさっさと帰ってください」
「全然無駄じゃねーし。てかロールキャベツできてるけど食わねーの?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」



 ロールキャベツ‥‥‥‥‥。



「じゃ、あっためて来るから。ちょっと頭どかしていただけませんか?」



 って俺、なんだかんだ膝枕されたまんまじゃん!!!!
 大慌てで飛び退ると、「あー足痺れたー」とか言いながら高野さんがにやにやと俺を見る。
 こ、この人、ホント性格変わった。
 昔は表情をあんまり出さなくて、寡黙で。こんなに喋る人じゃなかったのに。


 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥なんか、











「んな睨むなよ。‥‥‥‥お前ホントに性格変わったな」
「‥‥‥‥‥‥、え?」











 するりと、髪を一撫でされて。





























「なんか、ちょっと寂しい」





























 俺のいない十年が、実際にあったんだなって。
 俺がいなくても、この人普通に生きてきてたんだよなって。
 漠然と感じた、なんだか寂しい感じ。

 軽く微笑んだこの人からも、同じ気持ちが窺えて。











 ああもう、なんで。











「そういやお前、なんの夢見てたの? なんかすげー幸せそうな寝顔だったんだけど」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥悪夢ですよ」








 そう、悪夢以外の何者でもない。




 俺はざわざわする胸の内を仏頂面に隠して、顔を洗うため洗面所へ向かった。










   Was soll ich ihr schenken?






(何をすれば、この感情も過去も、苦悩も幸せも、全てゼロに戻せるんだろう?)