ああ、夢だったんだなぁ、と思った。





 隣にいたはずの人が跡形もなくなってる。
 シーツに手を這わせてもぬくもりすら残ってない。
 ということは、やっぱり夢だったんだ。
 全部、何もかも。



 出来過ぎだとは思っていた。
 高校生の時、「付き合ってるんですよね」という俺の問いに先輩が鼻で嗤ったのが照れ隠しだなんて、どうしたって信じられないし。
 先輩が俺のこと好きだったなんて、到底思えなかったし。
 そんなんで十年、俺のこと忘れられなかったなんて言われても、なんか胡散臭かった。
 ‥‥‥‥‥‥まあ、結局受け入れてしまったわけだけど。

 流された。
 否定はしない。
 流されたということはつまり、俺があの人を忘れられてなかったことになるけど、もうそれも認めるしかないと思う。
 だって成り行きに身をゆだねてしまってから、どうしようもないくらいの幸せを感じていたから。
 夢としか思えないくらいの。
 いや、やっぱり夢だったみたいだけど。



 俺は壁に向き合う形でベッドに横になっている。
 この混乱状態で周囲を見回すには、相当な心構えが必要そうだ。
 今はいつで、ここはどこだろう?
 高校生、実家の自室?
 留学中、ホームステイ先で割り当てられた部屋?
 大学生?
 社会人?
 どこからが夢?
 いや、そもそも“俺”と認識していた存在自体が夢幻で、全く知らない世界が背後にあったら、一体どうすればいい?



 底知れぬブラックホールに背中から落ちていくような感覚に、ぞっとした。







 時。





























「小野寺?」





























 ガチャリとドアが開く音。
 名前を呼ぶ声。







 俺は当然の如く凍り付いた。
 まだ寝てんのか? と言いながら近づいてくる気配。
 どうしよう、どうしよう。
 思考回路がどんどん絡んでいき、為す術もないうちに、ベッドが誰かの体重を受けてぎしりと軋んだ。
 肩に触れられて悲鳴を上げそうになる。







「なんだ、起きてんじゃねーか」







 上から顔を覗き込んでくる気配に、もう無視は出来ないと悟り恐る恐る視線を向ける。
 そこにいたのは。















 既に弾けて消えたはずの、俺の夢の中心人物。















「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥え、」
「あ?」
「た‥‥‥‥‥‥かの、さん?」
「なんだよ」







 訝しげな表情を見せるその人。
 高野さん、で返事をした。
 ということは、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥あれ?
 夢だって思ってたのは夢じゃなくて‥‥‥‥‥‥
 高校生の時のことも、再会したことも、もう一度恋人になったのも、全部が現実?
 いや、これも夢か?
 前に見た夢の続き?
 それとも、また新しい夢?







 何がなんだかわからず視点の定まらない俺に、高野さんは眉をひそめた。







「‥‥‥‥‥‥‥どうした? 寝ぼけてんのか?」
「ぅ、」







 頬に触れられてぴくんと体が縮こまる。
 でも親指が肌を撫でる感触はひどくやさしくて、徐々に肩の力が抜けていった。
 対する高野さんは訝しげで、だけどそっと頬に口付けてくれた。
 ああ、泣きそうだ。
 乾ききった体に水分が染み渡るみたいに、気持ちが満たされる。
 あやすみたいに、軽く頭をぽんぽんされる。



「ほら、朝メシ。じゃなくてブランチか。冷める前に食うぞ。‥‥‥‥‥立てるか?」
「え? あ、別に大丈夫で‥‥‥‥‥‥‥‥‥す、?」











 ぱさっ。











 のろのろと上半身を起こした拍子に、体に掛かっていたタオルケットが重力に従い落ちた。
 それを視界の端に捉えて、なんとはなしに自分の体を見て。



「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ッぎゃあああぁぁぁぁあああああ!!!?」
「え、なに今更?」
「なっ、な、なん‥‥‥‥‥‥なん‥‥‥‥‥‥!!?」



 なんで裸ーーーーーーー!!!!?


 かーっと一気に血が上った俺は何も考えられなくなって、反射的に蓑虫になった。
 ‥‥‥‥‥ぶっ、と噴き出す高野さんが恨めしい。



「くく、お前‥‥‥‥‥肩まで隠すなよ。生娘か」
「っるさいですよ。そして笑うな!!」



 羞恥と苛立ちに、ついいつものように返してしまった。
 一瞬見えた自分の素肌には、無数の赤い鬱血が花開いていた。
 腰も痛みこそないものの、とにかくだるくて。
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥と、いうことは。
 俺はセックスを、したのか?
 誰と?
 この人と?
 いつ?
 昨日?
 どうして夢のはずなのに、今と過去が繋がっているんだろう。



























 ――――――――――――――――――――――夢じゃ、ない?



























 どこからが?











「‥‥‥‥‥‥小野寺?」











 つん、と人差し指で軽く額を押されて、思考に沈んでいた俺ははっと我に返る。
 どうしたんだよ、と問われて何か言い訳しようと慌てて口を開いたけれど、それに対する返答は特に必要ないらしかった。



「で、立てないのか?」
「ぅえ、あー‥‥‥‥‥‥と?」
「しょうがねーな。‥‥‥‥‥‥まあ、半分は俺のせいだしな」
「いや100パーあんたのせいだろ」
「何言ってんだ、煽るお前だって充分悪いだろーが」
「煽ってません!!!」
「天然無自覚ってマジ悪魔だよな‥‥‥‥‥‥いや、自覚ありの確信犯よりはマシなのか?」
「結果が同じならどっちでも大して変わらないんじゃないですか」
「なんだそのいかにも他人事な答えは。お前のこと言ってんだぞ」
「知りませんよ」
「‥‥‥‥可愛くねーとこも可愛いとか、俺も大概末期だな。ほら、」
「っうわ!!?」



 不意に、密着した。
 驚いて咄嗟に身を引こうとしたら、それより早く蓑虫状態の俺の背中と膝裏に腕が回って。
 そのまま、持ち上げられる。



「‥‥‥‥‥‥っ!!? え!!? ちょ、なに、‥‥‥‥‥‥‥っ離せセクハラ上司!!! 警察呼ぶぞ!!!」
「うるさい。黙れ。メシが冷める。つーかこれ以上暴れたら落とすぞ」



 なんとも非情な宣告に、俺は口を噤むしかなかった。
 どうしろっていうんだ。
 騒いでないと、いろいろ気付いてしまうのに。
 俺を支える手の強さとか、触れ合う体温とか、頬を預けている広い肩の堅さとか、煙草のにおいとか、高野さんのにおいとか。
 顔なんか見られるわけがない。
 長い足が一歩踏み出される度に体が不安定に揺れて、俺は無意識に彼のシャツを掴んでいた。



「‥‥‥‥‥‥‥‥重くないんですか」
「重いに決まってんだろ。おんぶよりお姫様抱っこのがしんどいんだよ」
「お姫様抱っこって‥‥‥‥‥‥‥‥」
「まあでも、短い距離ならなんとかなる。結婚式でも階段降りるくらいなら大丈夫そうだな」
「一体なんの話をしてるんですか」
「そうとわかったら早いとこ結婚しような」



 意味不明な台詞の真意を測りかねているうちに、寝室を抜けてリビングへ着いた。
 既に天高く昇っている太陽が穏やかに照らし出すのは、自分の部屋ではないけれど、既に見慣れた室内の風景。
 夢の境目が未だによくわからないけど、“昨日”は“いつも”のように、仕事帰り高野さんの部屋に連れ込まれたんだった。
 そんなことを考えていたら、案外慎重に辿り着いたソファへ下ろされる。
 でもついさっきまで横になっていた俺は重力に逆らうのがしんどくて、横に座った高野さんに重たい頭を預けてしまった。
 相手はそれを払うことはないものの、気に留める様子もなく腕を動かしたり身を乗り出したり。
 その手の先を見れば、肉じゃがメインの和食が二人分用意されていた。
 食欲をそそるいい匂いに、お腹が鳴りそうだ。



「お前ご飯どれくらい食う?」
「えっと‥‥‥‥‥少なめで、」
「大根葉のご飯だけど」
「並でお願いします」
「はいはい」



 緑鮮やかなご飯が盛られているのは、“いつも”俺が使わせてもらってるお茶碗。
 目の前にあるマグカップも同様に。
 高野さんが自分用に用意してる食器だって、見慣れた色形で。
 この地に足が着いているような感覚は、なんなのだろう?

 考える前に、俺は声を上げていた。











「‥‥‥‥‥‥高野さん」
「ん」
「これが夢だったら、どうしますか」
「夢?」
「再会したのが、今こうして付き合っているのが、高校生の時俺たちが付き合っていたのが、俺たちの存在自体が、もしも夢だったとしたら」



















 あんたなら、どうするんですか?



















 俺はぼそぼそと問いながら、期待と不安が綯い交ぜになった視線を送る。


 対する高野さんはふたつのマグカップに緑茶を注ぎながら、俺を見ることもせずに。





























「現実にする」





























 そう、こともなげに言い切った。



















「万が一これが夢なんだとしても、夢で終わらせる気は毛頭ねーよ」



















 捜して捜して、駆けずり回ってでも、お前を捕まえてやる。



















 やっと目を合わせたその人は、にやりと不敵に笑った。
 ああ、あんたはその顔が一番よく似合う。
 俺もつられて「そうですね」と笑った。



「なに、夢かどうか不安なの」
「んー‥‥‥‥‥‥まあ、ちょっと」
「‥‥‥‥‥‥ふぅん?」



 軽く眉尻を上げ、なぜか片頬を歪める高野さん。
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥何やら嫌な予感‥‥‥‥‥というか気配がびしびし伝わってきて、反射的に少し遠ざかろうとしたのを、素早く押さえ込まれてしまった。
 ていうか、ちょっ!! 手が腰に!!!
 その上半ば圧し掛かるように、顔を間近から見下ろされて、だらだらと冷や汗が垂れてくる。



「あ、あの‥‥‥‥‥??」
「現実だっていう確信を与えてやろうか?」
「いいえ結構ですもう大丈夫です!!!」
「じゃあ俺に現実だっていう実感ちょーだい」
「い、いや、ほっぺでもつねってれば――――――――っ!!?」



 ついついかわいげのないことを言えば、黙れと言わんばかりに食らいつくようなキスをされた。
 しかも喋りかけで口が開いていたので、これ幸いと舌が侵入してくる。
 どうでもいいけど、手先だけじゃなく舌も器用だよな、この人‥‥‥‥‥。
 口内をかき混ぜられて、こっちの舌もしつこいくらい絡め取られて。
 最中みたいに濃厚なそれにくらくらする。
 抵抗しようとしても腕は簡単に拘束されてしまい、それなら蹴飛ばしてやろうと思ったけど、自ら体に巻き付けた布地が邪魔で足が動かない。
 結果、俺は酸欠状態にあることを伝える手段がなく、窒息死しそうになるまで深い深い口付けが延々続いた。
 唇が透明な糸を引いて離れた頃には、当然息も絶え絶えになっていて。







「はぁ、は、‥‥‥‥‥‥‥あんた、俺に恨みでもあるんですかっ、」
「安心しろ、十年前勝手にいなくなったことはもうそこまで根に持ってない」
「それはあんたのせいで‥‥‥‥‥‥っ、ていうか、根に持ってるんじゃないですか」
「もちろんゼロじゃねーよ。でも安心しろ。
 たとえこれが夢で、目が覚めた時まだ離ればなれの現実があったとしたら、俺は全力でお前を捜し出す」
「‥‥‥‥‥‥、」
「今度は偶然の再会を待つ、なんて時間もったいないことはしねーから」







 捜すったって、どうやって捜すんだよ。
 そう思ったものの、高野さんの黒い瞳は相変わらず強い光を持っていて、絵空事さえも実現させてしまいそうな力がある。
 返事に窮して「じゃあ俺は適当に待ってますからね」ともごもご言えば、可愛くないと頭を小突かれる。
 でもすぐ、ふにゅっとそこに唇を押しつけられた。
 俺を安心させてくれるみたいに。
 なんか高野さんが妙にやさしくてくすぐったい‥‥‥‥‥いや、むしろむず痒い。
 この甘ったるい空気になかなか免疫が出来ない俺はすぐ居た堪らなくなり、慌ててローテーブルに向き合った。







「え、えっと!! ご飯、ご飯いただいていいですかっ?」
「ん? あー、ああ」
「(くっ近い近い近いっ、離れろよ!!!!)う、えーと、じゃあいただきます!!」
「いただきます(がばー)」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥えっ?」
「いただいていーんだろ?」
「は? ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥はあっ!!!? な、何言ってんですか、なんの話ですか!!? あわわわっ、ちょっと、どこ触って‥‥‥‥‥!!!」
「そんな美味そうな格好してる方が悪い。いいだろ、これが超現実だって教えてやるよ(にやり)」
「いりません結構です!!! って、あっ‥‥‥‥‥‥ちょっ、高野さ‥‥‥‥‥‥ぎゃああぁああーーーーーー!!!!」







   It’s the best we can do!