ＧＡＮＺ　ＯＢＥＮ　Ⅳ

　ちょっと外出たいな、とコーヒー飲みながら呟いたら、なぜかアシさん達が色めき立った。
　曰く、「先生がやっと息抜きの方法を知ってくれた！！」とのこと。
　確かに俺はあんまり休憩とかとらない。
　アシさん主導の休み時間とかに一息つく程度だ。
　自宅でしてるとはいえれっきとした仕事だし、やっぱりちゃんと原稿上げてからじゃないとなんか落ち着かないから。
　といっても、あちこちの出版社で描いてて連載も常に数本あるから、
　アシさんたちが帰ってからも「仕事しなきゃ」っていう強迫観念に駆られて、気持ち的にゆったりできることはまずないんだけど。

　なんて、自分のさっきの独り言なんか忘れて、再び仕事にのめり込み始めた時。
　誰かが近づいてくる気配に顔を上げると、高野さんがいた。
　いつも思うけど、この人毎度毎度長居しすぎだと思う。編集長のくせに。
　まあさっき「そろそろ帰るわ」って言ってたし、コートも着込んでるし、軽く挨拶でもして丸川書店に戻るんだろう。
　ちゃんと描けよとか捨て台詞吐かれたらなんて返してやろうかとちょっと考えた、のに。

「ほら」

　俺の上着を差し出された。

　肩すかしをくらった俺はとりあえず、首を傾げる。

「‥‥‥‥‥‥え、なんですか？」
「さっさと着ろ。行くぞ」
「は？　なんで俺が」
「アシスタントの子に、『織田先生の真面目根性がぶり返して気が変わらないうちにちょっとでいいから外に連れ出してください』って頼まれた」

　いやいやいやいや。
　なぜだアシさん！！！
　なぜよりによってこの人なんだ！！？
　いや、俺があんなことを口走ってしまったタイミング的な問題と、
　高野さんと話をするきっかけが欲しかったっていう乙女心なのはわかってるんだけど‥‥‥‥‥‥‥‥

「それじゃあお邪魔しました」
「いってきまーす‥‥‥‥‥」
「「「「いってらっしゃーい！！！」」」」

　まさかこんなことになろうとは。

　いい散歩コースがある、って誘われるままに一緒に歩き始めた。
　これじゃ高野さんの思う壺だって気付いたのは、残念ながらもう少し後。
　だって、あんまりにいい天気だったから。
　風は吹くけど、なんだかふわふわとやさしくて。
　春一番はとっくに過ぎ去ったらしい。

　だってもうあっちこっちに、春が咲いてる。

「意外と太陽眩しいですね‥‥‥‥‥」
「お前が引きこもってるからだろ」
「しょうがないじゃないですか、そういう仕事なんだから」
「だからって出不精すぎ。この道覚えろよ？　今の時期逃したら絶対損するぞ」
「時期‥‥‥‥？」
「そ。あ、ここ右」

　言われるまま脇道に入り、歩くこと暫し。

　突然、視界が開けた。

「うわ‥‥‥‥‥‥、」

　今の職業に本腰を据え、この街に住み始めて数年。
　マンションの裏手を少し行ったところに、小さな川があることは知っていた。
　その両脇を立派な木々がずらりと並んでいることも。

　でも、それがまさか、全部桜だったなんて。

　まさに今が盛りの花が醸し出す“生”のオーラはすさまじくて、俺は言葉をなくす。

「‥‥‥‥‥‥‥‥、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥すご、」
「やっぱ知らなかったのか」

　呆れた様子の高野さんは、でもどこか嬉しそうで。
　そのまま一緒に、桜並木に沿って土手部分を行く。
　さっきよりスピードがゆるんでしまうのは仕方ないことだろう。
　どうやらここは有名な場所らしく、家族連れを始め幅広い年代のカップルやサラリーマンが、
　歩いたり立ち止まったりレジャーシートを広げたりしながら思い思いの花見をしていて、結構な賑わいを見せている。
　確かに、この桜は立派だ。しかもちょうど満開。
　見上げると小さな花がびっしり枝に付き、空を覆い隠してしまっている。

「絶景ですね‥‥‥‥」
「ホントにな。全部桜だって知った時点で期待してたけど、ここまでとは思わなかった」

　大半はまだ咲いたばかりのようで、地面に落ちている花びらは少ない。
　しばらく見頃が続きそうだ。
　この景色に出会えるなら、本当にこの時期くらい、毎日散歩でもしようか‥‥‥‥。
　そんなことを考えていたらなんとなく沈黙が続いて、それを破ったのは高野さんだった。

「俺さ、一時期桜嫌いだったんだよな」
「え？」
「なんつーか、‥‥‥‥‥高校の時付き合ってたの、ちょうどこんな季節だったろ？　だから桜っていうとお前が浮かんで。
　でも、次の年からはお前がいなくて、毎年一人で桜眺めて‥‥‥‥‥なんか物足りなくて、俺にだけ春が来てないような気がして、すげー嫌だった」

　腹も立ったし悲しかったと、高野さんは小さく笑う。
　ともすれば自嘲になりかねないのに、どこか穏やかに感じるのはなんでだろう？

「お前一人いるかいないかでこんなに違うのかって、改めて思う」

　ああ、口説かれてるんだってやっと気付いた。
　この人は飽きもせず俺に睦言を囁く。
　つれない返事しかしないってわかってるはずなのに、顔を合わせる度、ことある毎に。

　まるで。

　まるで、高校生の時の、俺みたいに。

　ねえ、あなたは今、あの時の俺と同じ気持ちなんですか？
　想いが次々溢れ出てくるような。
　言葉にしてしまうと陳腐だけど、俺は確かにそれを感じていたはずで。

　それを受け取るあなたは、どんな気持ちだったんでしょうね？
　もしかしてポーカーフェイスの下では、今の俺と同じ心境だったんですか？

「‥‥‥‥‥‥高野さん」
「ん」
「もう一回付き合おうとしたところで、どうせ実りませんよ」
「なんで？」
「だって、俺、あなたが初恋だったから」
「ああ、俺も」
「え？」
「お前が初恋」
「じゃあもっとダメじゃないですか」

　同じ人相手じゃ、とても「新しい恋」だなんて言えない。
　その言葉に大なり小なり喜びを覚えてしまったのが、たとえ事実としても。

　少しもやもやしてきた俺は、その場に立ち止まり、掌を上に向けた。
　ひらひらと降ってくる花びら。
　上手い具合に着地してきた純白のそれを、俺はただ見つめる。
　一歩離れたところでそれを見ていた高野さんが、おもむろに声を掛けてきた。

「なあ律、教えてやろうか？」
「なんですか？」
「おまじない」
「おまじない‥‥‥‥‥？」
「そ。初恋が実る、おまじない」

　不意に、距離が縮まる。
　俺の手に、高野さんの手が重なる。
　ひとひらの春をそのままに。

「地面に落ちる前に桜の花びら取れたら、叶うんだってさ」

　そのままぐいぐいと引かれて、また歩き始める。
　それがなんだか照れ隠しのように思えて、ちょっとだけ笑ってしまった。
　うすっぺらな、愛らしい白を逃がしてしまうのが惜しくて、俺はいわゆる恋人繋ぎになった手を握り返す。

　きっとそんなの、言い訳だけど。

　わかってる。
　わかってたんだ、ずっと前から。
　すっかりあたたかくなった空気が、俺の中の永久凍土まで融かしてしまったみたいだ。
　もう溢れ出て、止まらない。
　でもきっと、それでいいんだ。

　だって、受けとめてくれる人が、傍にいるんだから。

　そこまで言うなら、もう一度、俺の心を全部あなたにあげましょう。

　だから二度と俺が逃げないように、べたべたに甘やかして愛し続けてくださいよ。

　この世から消えるその瞬間、あなたを信じて良かったって、思えるように。

　あなたにこの気持ちを抱いて良かったんだって、思えるように。

「好きです」

　　　Wie heissen Sie?

（たとえばその名前が恋でも、愛でも、それ以外だとしても）

（もう、離さないから）